(5-10)履軒の独立
履軒が帰坂してからまもなく、竹山の妻、順が男児を出産した。
これまで三男三女を失っている竹山は、第七子であり、四男であるこの男児が無事に育ってくれることだけを願った。
「たとえ過保護であろうとも、お坊ちゃん育ちであろうとも構わない」
この男児は淵蔵と名付けられ、綿で包むようにして大切に育てられた。
京都から帰り、しばらく懐徳堂内で起居していた履軒は、年が明けるとともに懐徳堂を出ることにした。
懐徳堂から南へ約半里、鰻谷町の三休橋近くに三間からなる家を借り、そこへみわとともに移り住んだ。すぐ近くに長掘川が流れている。
ただ、浪人者の市街居住は許されていないため、別宅に際しては、祖父玄端の故主である龍野藩脇坂侯の家中という身分を名乗り、しかも「大坂にて一時逗留」という事由にした。
「愚かであった」
帰坂後の履軒は、しきりにそう口走った。自分の生来の望みや性質をわきまえず、自分の中にある虚栄心にそそのかされて、安易に高辻家からの招聘話に乗った。案の定、高貴な人たちとの接触の多さに辟易し、自分がすり減ってしまった。
「もう二度と招聘話には乗らないし、仕官もしない」
履軒は、固くそう決意したが、かと言って、このまま懐徳堂に居たのでは、また自分の位置付け云々で悩むことになる。
熟考した結果、懐徳堂から離れ、自活の道を選択することにした。それが生来の自分の意に沿う生き方であるとの結論に至ったからである。
「苦労をかけることになるが、申し訳ない」
履軒は、みわに詫びた。
貧乏は覚悟していた。履軒にとって、自分が生き生きとできる生き方を選択することこそが何よりも重要であり、迷いはなかった。
生活の資を稼ぐ手段として、履軒はこの借家で漢学塾を開くことにした。玄関に、
「水哉館」
という看板を掲げた。
塾舎兼居宅が長掘川の近くにあることから想を得たのだが、それに加え、かつて孔子が、「水なる哉、水なる哉」と発したという、「孟子」に出典がある故事にもちなんでいる。
水の流れのように、絶え間なく経書研究を続けたい。履軒にはそんな思いがあった。
「懐徳堂のことは心配するな。おぬしは、儒者としての学識も勤勉さもはるかにわしを凌いでいる。思う存分、研究に没頭するがいい。ここを出ると言っても、わずか四半時で行き来できるほどしか離れていない。疲れたら、いつでも気軽に懐徳堂へ帰って来るがいい」
竹山にそう言われ、履軒は涙を流した。帰坂後の履軒は涙もろくなっていた。
鰻谷町に落ち着くと、履軒はさっそく、「通語」という書物を著した。
これは儒学の書ではなく、平安時代の保元の乱から書き起こし、平治の乱、平家の世、鎌倉時代を経て、南北朝時代に至るまでを通観した史論である。
履軒は、以前から日本史に関心があった。高辻家に招聘されて京都に滞在した一年間で、王朝が衰退して政権が武家へ移行する時代について思いを馳せるようになり、自分なりに歴史解釈を試みようと思い立ち、筆を執った。
この書で履軒は、大義名分論の立場から、南北朝時代については南朝正統説を採っている。だが、政権が維持されるか否かは、人心を得るかどうかにあると述べ、後醍醐天皇による建武の中興が短命で終わったのも、人心が離れたためであると論評している。
履軒はほかにも、「詩経」の押韻を徹底的に研究して分類し、「古韻」という書物を著した。また、反故紙を使って、古代中国の士大夫が着ていたとされる深衣を実作したりもした。
竹山も、日本史に関心をもっていて、以前から、江戸幕府成立の経緯を探るべく、徳川家康の一代記の執筆を行っていた。それを「逸史」と名付け、時間を見つけては稿を練っていたのだが、懐徳堂の実務が忙しくて、なかなか調べも筆も進まなかった。
「誰に頼まれたわけでもなし、急ぐ仕事ではない。じっくり資料を集めて内容を吟味し、想が熟す都度、書き綴っていけばいい」
と履軒に語っていた。
竹山はこの時期、大坂城大番頭で、近江宮川一万三千石の藩主、堀田出羽守正邦の要請に応じて、月に三度、大坂城内で講義を行うようになった。
大坂西町奉行所へも出講し、奉行所の宴席にも招かれている、また、御三家の一つ、尾張藩徳川家からの相談事にも応じていて、その礼として羽二重一疋が下賜されている。この羽二重は、履軒にも贈られた。
竹山の充実は相変わらずながら、閉戸生の履軒も、ようやくにして自分の居場所を見つけた思いで、しずしずと新たな生活を始めた。




