(5-8)士儒春楼
竹山は、さらに多忙であった。
履軒が受け持っていた日講をすべて引き受け、その合間に預人としての庶事をこなし、さらに、蘭洲の遺稿整理も行っていた。
この作業は、以前は履軒と二人で行っていたのだが、履軒が京都へ去った後、竹山が一人で行い、ようやくそれも一段落した。
竹山は、蘭洲の随筆集「瑣語」と、経書に関する論文や史論をまとめた「質疑篇」の二冊を刊行した。優れた内容であり、このまま埋もれさせるには惜しいと思い、世に出そうと意図したものであるが、師の学恩に報いたいという気持ちもあった。
蘭洲には、荻生徂徠の「論語徴」を批判した著作「非物篇」がある。竹山は「非物篇」を校訂、浄書するとともに、別途その内容をさらに掘り下げて補足し、続編として「非徴」を著した。
この書は、蘭洲の荻生徂徠批判にさらに輪をかけた痛烈な徂徠非難書であった。徂徠に対する人格批判にまで及んでいて、過激と言えば過激な内容であった。
蘭洲の「非物篇」ともども出版を考えたが、資金不足もあって、とりあえずは手稿本として手元に置いておき、いずれ時機をみて刊行することにした。
そのほか、「周易」に注釈を施して、「易断」という書をものした。
この時期、竹山の門下生の中で、儒学を修めて儒者と呼ぶにふさわしい学識を備えた者が徐々に現れはじめた。
早野仰斎は、薬種商の父が果たせなかった学問成就の夢を託されて、幼少期から竹山に師事して頭角を現した。かなりの痩せっぽちで、衣に着負けて貧相に見えた。のちに、自虐の意味を込めて、「太痩生」という号を称した。
「倅の学業はいかがでしょうか?」
ある日、仰斎の父が懐徳堂へやってきて、竹山に訊ねた。
「ご心配には及びません。ご子息は勉学に励んで倦まず、日増しに学識を深めております。ただ、どうも商売には不向きな性分とお見受けするので、その点、遺憾ではあります」
竹山がそう答えると、仰斎の父は破顔一笑し、
「我が意を得た思いです。学問にさえ成就すれば、あとは何も望みません」
と喜び、帰っていった。
仰斎は、若くして懐徳堂の日講の一部を受け持つ助教となり、そのおかげで、竹山の業務負担が幾分か軽減した。
甃庵がこの世を去って八年が経過していた。その後を継いで三代目学主になった春楼だが、懐徳堂内での存在感はかなり薄かった。
日講の受け持ちが週に一回か二回と少ないだけではなく、懐徳堂の事務運営についてもほとんど手を出さず、ほぼ全般を竹山に任せている。日頃は家業の薬品製造に忙しい様子だが、そのことには触れないのがいつしか懐徳堂内での不文律となっていた。
家業のおかげで内福であり、儒者にしては服装が派手であった。しかも、
「私は士儒である」
と称し、外出するときはいつも帯刀していた。士人気取りであり、周囲から顰蹙を買っているのに、意に介している素振りは見られない。
父親の石庵が、病弱だった幼少期の春楼に学業を強いず、何よりも身体の無事を第一にと綿で包むようにして養育したことが、良くも悪くも春楼という人間をつくりあげた。
「要するにお坊ちゃんなのだ」
竹山は、春楼をそう見ていた。自分が特別な存在であり、周囲の人たちからかしずかれ、相当なわがままも聞いてもらえる身分であると、悪びれもせずに自然にそう思っている。
竹山は、春楼が懐徳堂の仕事に深く関与したがらないことは、なまじ口出しされるよりも好都合であると考えていた。懐徳堂の仕事のほとんどは竹山の裁量で進めることができ、必要に応じて春楼へ事後報告しても、否定されずに追認されるのがつねであった。
「あてにしなければ実害は少ない」
竹山は、前向きにそう捉え、自分の思い通りに懐徳堂を切り盛りしていた。だから、日々忙しいながらも心労は少なく、大いに働き、また大いに飲食し、健啖これを楽しんでいた。




