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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第5章 儒者兄弟
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(5-6)預人竹山


 竹山は、多忙であった。

 蘭洲が身まかった年の六月、二月に大坂東町奉行として赴任してきたばかりの旗本、鵜殿出雲守長逵(うどのいずものかみながみち)へのあいさつのために、竹山は進呈品を携えて京橋口の東町奉行所へ伺候した。

 ところが、顔見知りである与力から、気の毒そうに言われた。

「これまでの勝手を存ぜぬゆえ、お帰り遊ばされよ、との御奉行からの言伝(ことづて)である」

「ですが、御奉行が新任された際には、懐徳堂があいさつにまかり越すのが以前からの先例でございますれば」

「なにぶん御奉行のご意向ゆえ、小職では如何ともしがたい」

 与力から、重ねてそう言われた。

 せめて持参の品だけでも納めてほしいと竹山は食い下がったが、それも受け取れないと差し戻された。

 竹山は、やむなくいったん帰ったが、気を取り直して、懐徳堂のこれまでの経歴を長文の文書にしたためた。

 日を改めて、再び東町奉行所へ出向いてその文書を与力へ手渡すと、後日、東町奉行からの呼び出しがあり、ようやく面会が実現した。

 実際に会ってみると、新奉行の鵜殿長逵とは話がはずみ、親しくなった。のちに竹山は、長逵の次男である男子の(あざな)の名付け親を依頼されるまでになった。

 竹山は日講の合間に、人の道を分かりやすく五十三条の箇条書きにした年少者向けの書物、「蒙養篇(もうようへん)」を著した。

 竹山と履軒は、父の甃庵から、まず何よりも「孝」を大事にせよと教えられて育った。

 また、師の蘭洲からは、「儒」とは、人の道を説くことが本意であって、書を講じ、詩文を作るだけの人は儒者と称すべきではない、と繰り返し教えられた。

 「蒙養篇」では、まず第一条に、父母に仕えることを「孝」と言い、年長者に仕えることを「(てい)」と言うが、この「孝悌」の二文字は日夜心がけて、生涯忘れてはならない、と強調する。

 さらに「孝」については、口先だけではなく、実際に手足を動かして行動に移すことが肝要であること、また、みずからの言動が、父母の心に叶うものであるかどうかをつねに考えることが大事であるとたたみかけている。

 別の条項では、商人の門下生が多い土地柄を考慮して、商人の道についても説いている。

 すなわち、商売によって得られる「利益」とは、武士における知行であり、農民における作徳に相当するものであって、それを卑しんだり、引け目を感じる必要はない。だが、不相応に高利を貪ったり、不適切な価格で商品を客に売りつけて暴利を得、ほくそ笑むような姿勢は「利欲」と称すべき誤った商行為であり、道に背くものであると述べている。

 懐徳堂では先年、寄宿生に対して「定」を制定し、私用による外出禁止を示したが、綱紀粛正を図るために、改めて「二限五勿(にげんごぶつ)」の規定を定めた。

 二限とは、二条の制限であり、一日三回の食事以外の間食を禁じ(食限三次)、また、外出した際の門限を亥の刻(午後十時頃)まで(門限二更)とした。

 五勿とは、五条の禁止事項であり、争闘する(なか)れ、飲み過ぎる勿れ、賭博する勿れ、観劇する勿れ、娼街に踏み入る勿れ、とそれぞれ規定した。

「飲み過ぎる勿れとは? うわばみの兄上が、これを寄宿生に示すのですか?」

 履軒はこの条を見て、露骨に笑った。

「笑うな」

 竹山は履軒を叱ったが、履軒は笑いやまない。

「酒を飲むなとは言っていない。飲み()()()()、と規定しているのだ」

「それにしても、大酒飲みの竹山先生がこれを……」

「修行中の身である寄宿生ゆえ、酒そのものを禁止しても良いのだが、そこは百歩譲って、飲み過ぎるなと緩めているのだ。要は、酒に溺れるな、と言いたいだけであり、わしのように、いくら酒を飲んでも酔いつぶれない者ばかりではあるまい。おぬしのように、節度をもって飲む分には何ら問題はない」

「ご趣旨、理解しました」

 履軒は、ようやく笑いやんだ。

 宝暦十三年(一七六三)、三十二歳になった履軒は、竹山の妻、順の実家である革嶋家の分家筋の娘で、十八歳の革嶋みわを嫁に迎えた。

「徳二がめずらしく緊張しておるわ」

 婚礼の席で、白無垢姿の新婦の横で固くなっている履軒を見て、竹山はおかしがった。

 竹山は機嫌良く招待者たちの間を縫って談笑し、酒の杯を重ねていた。

 それを見た新婦のみわは、傍らでみわの世話をしている(あによめ)の順に小声で訊ねた。

「お兄様はあのようにお酒をたくさんお飲みになっておられますが、私の夫となる弟さんも、お兄様と同じぐらいお酒をお飲みになるのでしょうか?」

「あなたのご主人となる徳二さんは、うちの人と違って、自分が決めた量以上は過ごしませんので、ご心配なく」

 順がそう答えると、みわは安堵したのか、笑顔になった。

 その翌年、竹山は、順の実家、革嶋家から、家の財政が傾きかけているため、立て直してほしいと要請された。順の父、兵庫はすでに没し、順の弟である政之助が革嶋家の当主に収まっていたが、政之助はまだ年少であり、家政を取り仕切ることができないため、多忙は承知の上で、竹山に後見してもらえないかとの親戚筋からの依頼であった。

 それを受けて、竹山は、革嶋家がある山城国川島村西岡へ順とともに赴き、滞在することにした。

「しばらく西岡に滞在することになった。徳二、懐徳堂のことを頼む」

 履軒は、竹山が受け持っていた日講をすべて引き受けることにした。だが、奉行所への伺候や、関係筋との交渉事など、竹山の預人としての仕事を引き受けることは無理だった。

「西岡と懐徳堂とを一ヶ月おきに行き来することにする。渉外の仕事は、懐徳堂にいるときにわしがやるから、心配しなくていい」

 実際、竹山は、そのように行動した。西岡に居るときは、革嶋家がもつ田畑や竹林の経営実態を調べて、米穀の収穫高や、竹材の伐採高などの帳簿を整理して収支を明確化し、無駄や散逸を引き締めた。懐徳堂に居るときは、儒学を講じつつ、堂内の運営全般を指揮し、かと思えば衣装をととのえて奉行所へ伺候し、あるいは会合へ出席したりした。

 しかも、夜にはたくさん酒を飲む。

「よくも体を壊さないものだ」

 履軒は、竹山の精力的な働きぶりに半ばあきれた。

 と同時に、うらやましくもあった。ここ何年かで、父の甃庵を亡くし、師の蘭洲を失った。その悲しみは竹山も履軒も同じであるが、竹山は、その悲しみを懐徳堂預人としての仕事に昇華させている。大いに働くことで懐徳堂の運営者としての自覚をますます深め、前向きで生産的な生き方をすでに確立しているように見受けられる。

「それに比べ、わしは講師として懐徳堂運営の一端を担ってはいるが、あくまでも補助者としての立場であり、学主である春楼殿と、預人である兄上の陰に隠れた存在だ」

 甃庵から、春楼と竹山を補佐し、蘭洲の役割を踏襲せよと言われ、一時はその心構えでいたものの、蘭洲のように粛々と日講をこなし、泰然自若としていることができなかった。自分の位置付けというものがしっくり肚に落ちないまま、歯車が空転しているかのような感覚にここ何年間かずっと悩み続けていた。

 その悩みが原因なのか、長い間、倦怠感にも似た体調不良に見舞われていた。傍目には諧謔好きで、兄の竹山よりもとっつきやすい、ひょうきんな弟という体に見られている向きもあったが、心身の平衡を崩しがちで、ときには塞ぎ込んで自室に籠ることも多かった。

 「履軒」の号を自称し、多用し始めたのはこの頃からであった。

 占術の書である「周易」に、「道を()むこと坦々(たんたん)たり。幽人(ゆうじん)(隠者)なれば貞にして吉」という文言がある。名声や毀誉褒貶に頓着せず、ただ平凡に道を履み歩いてゆく。隠者のようにして己が節操を堅持し、惑わなければめでたき人生だ、との意である。「履軒」の号はこの句から引用した。別に「幽人」の号を用いることもあるが、それもこの句に由来する。

 この頃に履軒が詠んだ詩に、「軒冕(けんべん)(高い地位)は吾事(わがこと)にあらず」「名を避くること蝎蛇(かつだ)のごとし」という文言もある。

 そういう生き方をしたい。自分の人生はそうあるべきだ。これらはいずれも、そんな内なる思いの吐露ではあったものの、それとは裏腹に、そういう生き方に徹しきれずに、迷い、揺れ動いている自分がいることも履軒は自覚していた。心の奥底に、世間に名声を博したいという野心の芽がまだ残っていて、そのことも履軒の苦悩の種になっていた。

 革嶋家の財政の立て直しはほぼ実現し、竹山が川島村西岡と懐徳堂とを行き来する生活は約一年で終了した。

 竹山は、甃庵以来の孝子顕彰活動も引き継いでいた。

 美作国吉野郡田殿村(たどのむら)出身の稲垣子華(いながきしか)は、甃庵時代の懐徳堂の門人であった。学成って、甃庵の推挙で播州安志(ばんしゅうあんじ)一万石の小笠原家に仕えるが、やがて老父に孝養を尽くすために、周囲の慰留を振り切って安志藩を致仕し、田殿村へ帰農した。

 子華は、田殿村で老父に篤く孝行し、その傍ら、農耕に精を出した。その行いが村内で評判となり、村の庄屋、年寄が連名で子華の孝養ぶりを役所へ注進した。その結果、同地の代官から米十俵が贈られ、またその話が公儀にも伝わり、銀二十枚が下賜された。

「懐徳堂から、子華殿のような孝行者を輩出したことは大慶の至りであり、本望である」

 このことを知った竹山は、「子華孝状(しかこうじょう)」という書物を書き上げて子華の行いを顕彰し、履軒の跋文(ばつぶん)を添えて懐徳堂蔵版で出版した。

 この時期、履軒の妻、みわが男児を出産し、履軒の鬱しがちな気持ちに一筋の光明を与えたが、喜びも束の間、その男児は夭折した。

 一方、竹山の妻、順は、これまで三男二女を生んだが、その五人がみな夭折していた。

「我ら兄弟は、なにゆえ逆縁の禍に苛まれるのか」

 竹山は長嘆し、履軒ともども手を取り合って幼児の死を悼んだ。

 幼子が亡くなるたびに、竹山は哀惜を込めた詩を詠んだが、後年、第六子で、三女の布美(ふみ)を失ったとき、竹山はその死を哭し、哀悼の詩を詠じた。

「予、六子を(よう)し、弟、一子を夭す。夜、家人、瓦棺(がかん)を買って還る。涙をおさめ、啼くをやめて納棺す。手製の香繃(こうほう)(背負い衣)、嬉玩(きがん)の物、心をつくして収拾し、棺に入れる……小襦(こどもぎ)、いまだ(やぶ)れずして、一生、軽し」

 そんな悲しみに長く沈んでいる間もなく、竹山は、大坂東町奉行、鵜殿長逵(うどのながみち)の紹介で、大坂に入港する船を監視監督する川口船手奉行(かわぐちふなてぶぎょう)である永井監物(ながいけんもつ)の嫡男に読書指南を行うことになった。月三回、竹山が役宅へ赴き、ときどき履軒が代理を務めることもあった。

 忙しく立ち働くことは、竹山にとって身内喪失の悲嘆から逃れる一つの方便でもあった。


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