(5-5)五井蘭洲死去
蘭洲は、病に倒れた。医師からは中風と診断された。
亡くなった甃庵と同じ病である。蘭洲は講義を行えなくなり、竹山と履軒が引き継いだ。
湯治のため、蘭洲は履軒に連れられて有馬温泉へ行ったりもしたが、やがて寝たきりになった。
ふだんは下女が蘭洲の身の回りの世話をしたが、竹山と履軒は、毎日のように蘭洲の病床を見舞った。
「そなたらは、あまり酒を飲み過ぎるな。私の二の舞になるぞ」
蘭洲は二人の弟子に、ろれつが回らない舌でそう諭した。
「はい、お言葉の通り、あまり過ごさないように留意します」
竹山はそう答えたが、その後も竹山の大酒は相変わらずであった。節度をもって酒を飲む履軒は、そんな竹山を事あるごとにからかった。
竹山は、日講と、預人としての事務仕事で忙しかったが、その合間に、経書研究にも力を注いだ。四書の各原文に見られる似通った表現を抜粋した「四書句辨」を著したり、朱子学の入門書であり、日講でも取り扱っている「近思録」に、諸学説や自身の見解を書き入れた注釈書、「首書近思録」を著したりした。
竹山は、甃庵が晩年、経書研究に着手できないまま老境に至ってしまったことを後悔していたのを知っていた。同じ轍を踏まないように、余暇には努めて机に向かい、単に仕事に忙殺されるだけに終始するのを避けようとしていた。
「講義をし、庶事に追われ、はたまた漢籍の研究もする。それに加えて大食し、酒も浴びるように飲む。まったく、兄上の精力は絶倫と言うほかないですなぁ」
履軒はそう言った。
「精力絶倫などと、人が聞いたら誤解するようなことを言うな。幸いにも、わしは両親から頑健な身体をもらったのだ。その恩に報いるためには、自分の持てる力の限り働くことが筋であり、孝と言うものだ」
「恐れ入りました」
そういう履軒も、経書研究に本格的に取り組み始めていた。四書五経を繰り返し精読し、さらに各種注釈書をひも解いて、自分なりの見解を構築することに力を注いた。
蘭洲は病床で、自分自身の経歴を振り返っていた。
幼少時、家が貧しく、口減らしのために親戚宅へ預けられ、肩身の狭い思いで過ごしたことが、性格の中に引け目のようなものをもち、社交が苦手な気質を形づくる遠因になったのかもしれない。
青年になって親戚宅を出て、帰坂したものの、貧しい老親を養うために傭書に精を出した。持軒の家塾を引き継いだが、向いていないのか、あまり流行らなかった。
暮らしに余裕ができると、京都の伊藤東涯のもとへ通って学んだり、大坂に来ていた対馬藩儒の雨森芳洲に自分が書いた文章を見てもらったりもし、研鑽に努めた。
持軒が亡くなり、母のたかを看病する日々を送ったが、妙知焼けで焼け出されて母を失ったときは、悲運を嘆いた。それでも、被災した自分に温かく接してくれる人々がいて、気持ちが癒された。
平野郷の含翠堂に一時期寄宿し、その後、縁あって懐徳堂の講師になったが、やがて江戸へ出て、三輪執斎の明倫堂で漢籍に訓点を施す作業をしつつ、儒学を講じた。
執斎に推挙されて津軽藩儒になったときは、これでいっぱしの儒者としての肩書きが得られたと思って喜んだ。
藩主への進講を受け持たされるまでになったものの、津軽の冬の寒さは体質に合わず、体調を崩し、気が萎えた。もとより、宮仕えが自分には合わないと感じていたこともあって、結局、津軽藩を致仕した。このとき、自分というものがようやく見えてきたという実感があった。
儒学を学び、研究する目的は、まず第一に精神修養、人格陶冶であることに確信を抱くようになったのはこの時期であった。それを軽視する荻生徂徠の考え方が相容れないものであることを認識し、それに反駁すべく、精力を傾けて「非物篇」を著した。
甃庵に誘われて大坂へ戻り、再び懐徳堂の講師となった。毀誉褒貶に頓着せず、粛々と儒学を講じる日々が、ようやく自分にとってしっくりするものであると感じられるようになった。また、甃庵から依頼されて、竹山と履軒を教育したが、幸い二人とも筋が良く、一人前の儒者に成長した。
生涯、正妻を持たなかったが、娘のせつが生まれたのは喜びだった。せつは無事に成長し、はや二十歳になった。嫁ぎ先を世話してやりたいが、病に倒れ、それができないのが心残りではある。
蘭洲は、病床に臥せたまま、もつれる舌で竹山と履軒に言った。
「私が死んだら、火葬して遺骨を瓦壺に入れ、『五井純禎之遺骨』とのみ題して寺に渡してほしい。墓は無用である」
「そんなことをおっしゃらないで下さい。僭越ながら、私と徳二とで、先生の墓碑銘を建てさせていただきます」
「否」
蘭洲はそれを拒んだ。
「私は才徳もなく、人に語るべき履歴もない小人ゆえ、墓はもとより、墓碑銘や碑文など一切無用である。死後は骨壺に収まって、波風が立たない場所に沈潜したまま、静かに時を刻みたい。それが私の望みゆえ、どうか叶えてほしい」
「……はい。承知しました」
竹山はそう答えた。履軒は、嗚咽していた。
「ただ、一つだけ、そなたらにたっての頼みがある」
蘭洲はそう言い、ぼんやりとしていた目を大きく見開いた。
「娘のせつを、どうか身が立つようにしてやってほしい。私は父親として失格であった。日頃、そなたらにも、門下生たちにも徳行を勧めておきながら、講師である私自身が家族という営みをせず、娘を得ながら同居して育成することをしなかった。誠に面目ないことではあるが、二十歳になったせつに、どうかしかるべき嫁ぎ先を世話してやってほしい」
そう言うと、蘭洲は竹山の手を取り、次いで嗚咽を漏らしている履軒の手を取った。
「はい、必ずや先生の意に添うように致します」
竹山も落涙した。
蘭洲は、みずからの生涯が、ぼんやりとした被害者意識に包まれたまま、積極的に前に出られずじまいで過ぎて行ってしまったことに、悔恨の念を抱かずにはいられなかった。貧窮や不運、不遇など、世間にはよくある話であって、決して自分だけが特別だったわけではない。貧窮のあまり、養子や里子に出される子供は今でも大勢いるし、妙知焼けで焼け出された人も大勢いた。最後まで好感をもつに至らなかった石庵も、妙知焼けで著書をすべて失った。よくある世間の不幸を、自分だけが不幸だったと捉え、それを肥大化させることの愚を痛感していた。生涯にわたって儒学を学んだにもかかわらず、そんなことすら悟れず、晩年まで尾を引いてしまった自分の愚かさが悔やまれた。
春暖の病床の窓外には、満開の桜が見えていた。
「いい季節だ」
蘭洲の頬に笑みがこぼれた。
宝暦十二年(一七六二)三月十七日、五井蘭洲はこの世を去った。享年六十六歳。
懐徳堂を創設し、あるいは維持伸長させた石庵、甃庵、蘭洲の三人は、いずれも六十六歳で他界した。単なる偶然と言えば偶然だが、懐徳堂の関係者たちは、しばらくの間、不思議な一致であると語り合っていた。
「蘭洲先生は、墓は無用、墓碑銘も碑文も無用だとご遺言されました」
蘭洲死去後の緊急同志会の場で竹山がそう言うと、なにを阿呆なことをと一蹴された。蘭洲からあまり好かれていなかった春楼でさえも、そんなことはあり得ないと否定した。
「蘭洲先生は、今日の懐徳堂を育て上げることに貢献された功労者です。たとえ先生が墓は無用と遺言されたとしても、お言葉通りそれを是とすることはできません。学主である私の意志として、先生の遺徳を偲んで墓を設け、墓碑銘を奉りたいと思います」
竹山は、春楼の熱弁ぶりに驚いた。春楼が学主らしい裁定を下す姿を初めて目にした気がした。
もとより、竹山も履軒も、蘭洲のこの遺言については遵守する気など毛頭なかった。
懐徳堂で蘭洲の葬儀が営まれ、町内の人たちや門下生など、多くの弔問客が訪れた。
蘭洲の遺骸は、上本町の浄土宗実相寺内の墓に葬られた。墓への埋葬は、故人の意に反するものの、それに異議を唱える者は一人もいなかった。
墓碑銘の文は、竹山が撰し、履軒がそれを清書した。
「通儒全才」
竹山は、蘭洲をそう評した。通儒とは、多方面の物事について知見をもつ博識の儒者のことを指す。蘭洲は、儒学はもとより、和学にも通じていて、その方面の著作もあった。
蘭洲の墓碑銘の碑石は、二年後の三回忌の際に建てられた。
竹山は、蘭洲の二つの遺言のうちのもう一つについては、その遺志の通り忠実に遂行した。蘭洲の一人娘、せつは、竹山の養妹となって、後日、旗本永井家の大坂留守居役、長島宗助のもとへ嫁いでいった。




