(1-4)石庵、破門される
三宅石庵は、寛文五年(一六六五)、京都三条通で生まれた。父の道悦は儒者であり、石庵は幼少期から父に儒学の手ほどきを受けて育った。十歳年下に弟の観瀾がいた。
儒学とは、中国春秋時代の思想家、孔子が唱えた倫理政事規範を体系化した学問であり、自己修養を通じての人間性の向上と、経国済民の道を説く。孔子とその門弟たちの言行録である「論語」は儒学の代表的な経典であり、「論語」と、「孟子」、「大学」、「中庸」を四書、「詩経」、「書経」、「礼記」、「易経」、「春秋」を五経と呼び、これら四書五経が儒学における基本経典とされる。儒学を学ぶとは、四書五経と、その膨大な注釈書や類書を読み砕き、理解することであるが、仏教に宗派があるように、儒学にもさまざまな学派が存在する。
石庵十歳のとき、錦小路で漢学塾を開いていた儒者の浅見絅斎に入門し、絅斎が信奉する儒学の一派、朱子学を学んだ。
朱子学とは、聖人君子の道を目指す学問であり、当時は多くの儒者が朱子学を学び、かつ門下生に教授していた。
石庵は学問に没頭し、朱子学のみならず、多くの漢籍を渉猟したが、十七歳の頃、陽明学の書籍を読んで感銘を受け、これに傾倒した。陽明学も儒学の一派ではあるものの、同じ儒学の一派である朱子学に対して批判的な学派である。
陽明学とは、実践することを是とする学問であり、これを主宰する儒者は増えつつあったものの、一方でこれを危険思想視する向きもあった。
石庵は、おのれの陽明学への傾倒ぶりを師の絅斎に知られないよう、細心の注意を払っていたのだが、二十歳のとき、そのことを絅斎に知られてしまった。
「近頃どうもおかしいと思っていたが、おぬしは邪道とも言える陽明学に傾斜しておったのか?」
絅斎に詰問された石庵は、口答えした。
「陽明学をなぜ邪道と決めつけるのでしょうか? 朱子学だけが絶対不変の真理であり、それ以外の学派は一切認めないという凝り固まった考え方こそ邪道と言うべきではないでしょうか? 特定の学派のみを墨守するのではなく、各学派の長所を素直に認めて、それらを柔軟に採用する姿勢こそが学問の要諦ではないかと私は考えます」
絅斎は顔面蒼白になった。怒りのあまり、しばらく絶句した。
「浅学未熟のおぬしが何をほざくか! 朱子学の深奥を極めもせぬうちに、勝手気儘に別の学派の書物をあれこれ渉猟するなどもっての外。そのような浮ついた心持ちでは学問を修得することなど到底おぼつかぬ」
「私は朱子学を否定しているわけではありません。朱子学を基本に据えつつも、それ以外の学派の良いとこ取りをしたいと考えているだけです。それのどこがいけないのか、私には理解できません」
「おまえは破門だ。金輪際、ここへ出入りすることは許さん」
「ああ、そうですか。そのような頭の固い師匠からはもはや学ぶべきことなど何もありません。こちらの方こそ願い下げです」
売り言葉に買い言葉で、石庵は憤然としてその場から立ち去った。
「儒者が往々にして、自分が信奉する学派のみを唯一の正道であるとし、それ以外の学派を排除しがちであることが不可解でならない。それぞれに耳を傾けるべき論点があってしかるべきであり、目と耳とをふさぎ、他学派の主張をすべて撥ねつける姿勢が果たして学問をする態度と言えるのだろうか? 学問とは、そんなに閉鎖的なものなのだろうか?」
石庵はこの疑問をその後もずっと抱き続けた。
すでに両親を失っていた石庵は、絅斎から離れて以後、残された財産を細々と消費しつつ、弟の観瀾らとともに独学で書物を読み砕いた。衣食への出費はできるだけ切り詰めて、寝食を忘れるほど学問に打ち込み、五年後にはほとんど無一文に近くなっていた。
元禄二年(一六八九)、二十五歳の石庵は、観瀾とともに京都を立ち、江戸へ向かった。
「江戸には儒者が多く、そういう人たちとの交流を通じて得られるものが多いであろう」
京都で漢学塾を開くという選択肢もあったが、江戸なら多くの儒者との交流によって研鑽を積めることに加え、江戸で儒者として名を成せば、全国の大名小名から仕官のお声掛かりの機会にも恵まれるだろうという目算もあり、あえて故郷を離れる決心をした。
江戸に落ち着くと、さっそく漢学塾の看板を掲げたが、思いのほか門弟が集まらなかった。府内には儒者が多く、漢学塾の数も畿内に比べて格段に多いために競合が生じ、流行りの塾と、そうでない塾との二極化が進んでいた。
石庵が塾の運営に苦慮する一方、年若い観瀾はさらに学問を深めるべく、公儀の儒官であり、その傍ら漢学塾を開いていた木下順庵へ入門した。
順庵は京都錦小路出身。幼少期から鬼才で知られており、徳川家康の側近であった天台宗の僧、南光坊天海から法嗣にと望まれたことがあるほどの逸材であった。結局、順庵は仏門には進まず、儒学、特に朱子学を学び、精通するほどに極めた。
順庵の学派は木門と称され、その門下生の中でも特に優れた十人の儒者は木門十哲と呼ばれた。その面々には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲など高名な儒者が名を連ねているが、後年、観瀾も十哲の一人に数えられるまでになった。
「兄上も、順庵先生の謦咳に接したらいかがですか? 得るものは多いと思いますよ」
観瀾からそう勧められたが、石庵は、自分が三十路に近い年齢であることを口実に断った。本音としては、師に就くことにはほとほと懲りていた。浅見絅斎から破門されたことのわだかまりは、生涯、石庵に付きまとって離れなかった。
観瀾とは真逆に、石庵にとって江戸での生活はつらいものになった。己が漢学塾はいっこうに流行らず、他の儒者との交流もそれほど多くなく、学問にも身が入らなかった。
京都出身で、石庵同様、陽明学に傾倒した儒者、三輪執斎と親しくなったことが石庵にとって数少ない気慰みであった。執斎は石庵よりも四歳年下で、初め朱子学を学び、やがて陽明学に共鳴するようになった。出身地が同じで、本邦における陽明学の祖と称される中江藤樹を尊信している点も二人は共通していた。
石庵は江戸での暮らしに居心地の悪さを感じながら、それでも八年間は水に慣れようと努めた。だが、それが限界だった。
元禄十年(一六九七)、石庵三十三歳のとき、観瀾を残して一人京都へ帰った。
自分と違って、観瀾はよく学び、かつ快活に動き回っている。人付き合いの面でも、観瀾の方が自分よりも適している。自己研鑽が主体の学問の世界においてさえも、人との関係を良好に保てるか否かが重要な要素なのかもしれない。石庵にとって、そんな気づきを得られたことが、江戸で暮らした八年間の収穫と言えなくもなかった。




