(5-4)新体制発足
懐徳堂は、四十七歳の春楼が学主、二十九歳の竹山が預人という新体制で再始動した。
これを機に、定約や壁書を改定し、また寄宿生に対する「定」を新たに制定した。
定約改定では、まず学主世襲の禁を解くことが盛り込まれた。
これについては、同志間でさまざまに意見が出て、紛糾したが、あくまで原則は、世襲ではない別人による継承を正とするも、もし適切な人物が存在しない場合は、先学主の子弟による継承も可とする、という内容に落ち着き、柔軟性をもたせた。
異学者招聘の禁、という規定も盛り込まれた。
この規定における異学者とは、具体的には「四書である『中庸』や『孟子』を謗る者」と、「三教一致を唱える者」であるとした。
「『中庸』や『孟子』を謗る者」とは、すなわち荻生徂徠であり、古文辞学派を指した。
徂徠は、「中庸」や「孟子」には聖人の教えの本質は存在しないと断定し、かつ、儒学を治政における有用性という観点でのみ捉え、人間性の涵養という側面を露骨に軽蔑している。
そういう徂徠の考え方は、儒学を学ぶ目的を何よりもまず道徳的修養であるとし、かつ孝を重視する懐徳堂としては相容れないものであるとして、これを排除した。
この一件は、古文辞学を危険視している蘭洲が特に熱心に説き、すでに徂徠の著作を読んでいた竹山と履軒も師の意見に賛同した。
一方、「三教一致を唱える者」とは、石田梅岩の石門心学を指していた。
石田梅岩は、京都で自由聴講の心学講義を行っていた。
「儒学、仏教、神道は、それぞれにもっともなことを唱えているが、文字による学問は、あくまでも心を磨く研種に過ぎず、そのどれが優れているか、どれを学ぶべきかなどを考えても意味がない。それよりも、自分の身分や職分を天命として受け入れ、一途にそれに徹し、実践することこそが精神修養であり、道につながる」
梅岩はそう説いて、多くの信奉者を獲得していた。
ややもすれば、文字を知らず、学問を学ばなくても道が得られるという石門心学の教えは、懐徳堂の運営者には受け入れがたかった。
「そのように安易、安直なものではなく、日々の務めの合間に、心を落ち着けて書物をひも解き、ときにはその意を解するのに難渋し、ときには沈思黙考したりする時間を経なければ、学問はおろか、道など得られるものではない」
そのため、懐徳堂の考え方とは合致しない石田梅岩の石門心学は排除することにした。
懐徳堂の講義内容は、従来通り四書五経を中心とするものの、余力に詩賦文章、医術を内々で講じたり、会読したりすること、あるいは詩会、文会を開くことも可とする、という一条も付け加えられた。
経書の講義だけでは、息が詰まると話す門下生がちらほら存在する。最近、懐徳堂が敬遠され、門下生が集まりにくくなっているのではないかと懸念を示す同志もいたことから、懐徳堂創設当初は禁止していた詩文の教導等を解禁し、規定を緩めることにした。
壁書の改定では、これまで、初めて聴講する者は預人ないしは事務の者に申し出ることが義務付けられていたが、懐徳堂の所在地である尼崎町の住民に限っては、この手続きを経ずに自由に聴講できるように改めた。これは尼崎町の町年寄からの要望であり、町内融和の観点から、この要望を受け入れることにした。
また、全三条からなる寄宿生の定が新たに制定された。これには寄宿生の心得のほか、私用による外出を禁止する規定が盛り込まれた。
「私と徳二(履軒)は十代の頃、蘭洲先生から、儒者を目指す以上、愉楽の欲求に安易に逃げることは厳に慎み、ひたすら学問修行に励むようにと諭されました。正直な話、当初はそれがかなりつらかったのですが、やがて、そういう心がけで日々過ごすことにも慣れて、学びがはかどることを実感しました。寄宿生たちは、学成って故郷へ錦を飾ることを目指す者たちばかりですので、私の経験上、無用な外出を控えさせ、愉楽に逃げる機会を与えないことが肝要だと考えます」
竹山がそう言うと、履軒は付け加えた。
「その代わり、成人し、学成った暁には、大いに酒を飲めとも蘭洲先生から諭されました」
「大いに飲めと諭したつもりはないが」
蘭洲は苦笑した。
蘭洲は、酒を控えるようになっていた。頭痛が続き、めまいがし、ときどき舌がもつれるようになったためである。長年の大酒が祟ったのではないかと不安を抱いていた。
春楼は、終始微笑を絶やさなかったが、あまり発言はしなかった。これまで懐徳堂の運営にほとんど関与してこなかったゆえの遠慮にも見えたが、そもそも学主の仕事を主体的に行う気がなく、あくまでも丸薬製造が自分の主業務であると考えているゆえなのか、傍目には分からなかった。
春楼はこれまで、隣家を借りて薬店を営んでいたが、学主就任を機に、隣家の薬店をたたんだ。ただし、懐徳堂内の自宅での製薬は、石庵の代からの家業ということで、引き続き行うことになった。




