(5-3)中井甃庵死去
宝暦八年(一七五八)六月十七日、中井甃庵は息を引き取った。享年六十六歳。
竹山が喪主で、履軒がそれを補佐し、葬儀主幹は新学主である春楼が務めた。蘭洲は友人代表という立場で葬儀運営に携わり、また同志たちもそれぞれに葬儀に参画した。
奇しくも甃庵は、師の石庵と同じ年齢でこの世を去った。
懐徳堂で営まれた葬儀には、大勢の弔問客が訪れた。二十八年前に行われた石庵の葬儀のときと同様であった。
甃庵は貽範と諡され、亡骸は、上本町にある浄土宗誓願寺へ葬られた。
葬儀後、懐徳堂ではさっそく、春楼が三代目学主に就任し、竹山が預人になることを公表した。履軒は講師として、引き続き懐徳堂の日講の一部を受け持った。
竹山と履軒は、儒式にのっとり、三年の服喪期間に入ったが、懐徳堂の仕事は続けなければならないため、主に飲食での贅を控えることをもって喪に充てた。竹山は飲酒量を減らし、履軒は、好物の慈姑を口にしないことに決めた。
竹山は預人として、やや頼りない春楼を学主に戴きながら、懐徳堂を切り回していく立場になった。すでに甃庵という盾はなく、すべて自分が矢面に立って物事を処理していくことになる。その責任の重さに緊張すると同時に、身が引き締まる思いでいた。
竹山はすぐに町内や各所へあいさつに出向いた。また大坂町奉行所へも、懐徳堂の新体制についての報告のために、直接奉行へ伺候したいと申し述べ、日程調整を願い出た。東町奉行、西町奉行ともに面会に応じてくれることになったものの、前年九月に東町奉行に就任した岡部元良が、下僚へ漏らしたという談話を竹山は伝え聞いた。
「懐徳堂? ああ、漢学塾か? よく分からんが、儒者輩が我らの前へ出ることさえ名誉であるのに、先代から仕事を引き継いだあとも、相変わらず公辺の務めを奉行所へ願い出る気でいるのか?」
過去の経緯を知らない新奉行からは、たとえ官許学問所であるなどと称したところで、懐徳堂など、市井の漢学塾の一つに過ぎないと見做される。そのことを痛感した竹山は、やはり甃庵のときと同様、年四度の伺候と、奉行与力交代時のあいさつは欠かせないと思い、爾後、それを励行することにした。
一方、履軒は、懐徳堂の講師として日講の一部を受け持ってはいたものの、甃庵の死によって、自分の存在基盤が脆弱なものであることを初めて認識した。
甃庵が学主兼預人として在世中は、その子息の一人として懐徳堂内で起居することに何の違和感も感じていなかったが、甃庵が亡くなった今、自分は講師とは言え、預人となった兄、竹山の同居人という、部屋住みの身分でしかないことに気がついた。
師の蘭洲は、自分と同じく講師という身分ではあるものの、長年、甃庵を補佐して懐徳堂の日講の大部分を受け持ち、事実上、副学主と呼んで差し支えない。懐徳堂の右塾に起居するに足る名分があることは、衆目が異議をはさむ余地がないと言える。
蘭洲の役割を踏襲せよ、と甃庵に言い含められ、そのつもりでいたものの、春楼が学主、竹山が預人である以上、蘭洲も含めると自分は四番手でしかない。四年前、甃庵が遺書を公表し、春楼を次期学主に指名した時点で、こういう問題に直面することが分かっていたはずなのに、そのときは深く考えもしなかった。履軒は、迂闊だったと歯噛みした。
春楼は、石庵亡き後も二十八年間、右塾に住み続けて丸薬製造に精を出し、今日に至っている。これまで懐徳堂の運営にはほとんど参画してこなかったが、それでも傍目には、懐徳堂内に起居することに何ら引け目を感じている様子はなく、のほほんとしている。今般、学主に就任したものの、履軒には、春楼の精神構造がまったく理解できなかった。
履軒は悩みつつも、懐徳堂を出て新たに居を構えるだけの勇気はなかった。多少、自分の位置付けがしっくりせず、収まりの悪さを感じながらも、とにかく与えられた日講をきちんとこなしつつ、余暇には学問に励み、経書研究に徹することに決めた。
甃庵の死を契機に、履軒は、高祖父母から玄孫に至る親族それぞれにつき、服喪期間を一覧化し、解説を付した「服忌図」を作成した。
生前の甃庵から厚い信頼を寄せられ、二人の息子、竹山と履軒の教育を託された蘭洲は、甃庵の葬儀後、在りし日の盟友を偲んで数日自室に籠り、その死を悼んだ。




