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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第5章 儒者兄弟
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(5-2)甃庵の後悔


 甃庵にとって、父母への「孝」は何にも増して尊重されるべき最大遵守事項であった。

 甃庵は父玄端の死に際し、孝に基づく儒教式の葬祭礼を定型化するために、「葬祭私説」を著した。また、「富貴村良農事情」、「五孝子伝」を著し、「孝」の実例を世間に開示した。

 甃庵自身、母そのに孝行するため頻繁に龍野へ足を運んだ。そのの晩年には約半年間、一家挙げて龍野に滞在し、そのを看取った。甃庵にとってそれは孝の実践であった。

 青年時、英邁な祖父、養仙の差配で、伊予新谷藩士の岸田家へ養子に出され、甃庵は武士として生涯を終えるつもりでいた。だが、養父が免職となり、まもなく急死すると、養母に追い出されるようにして岸田家を辞し、実家へ戻った。

 その後は儒者を志して石庵のもとで学び、刻苦勉励の末、学識を身につけた。

 五同志とともに懐徳堂創設に世話人として参画、また官許取得のために奔走し、六度も江戸へ赴いてそれを実現させた。官許取得後は預人となり、病気がちな学主石庵を補佐して懐徳堂を切り盛りした。石庵没後は学主兼預人となり、懐徳堂の諸々の仕事を一手に引き受けて多忙を極めた。大坂町奉行所ほか、支援者や各所との関係維持にも卒がなかった。

 甃庵はこれまで、仕事の合間に経書研究にも注力したいという思いをずっと抱いてきた。だが、懐徳堂の日講や実務に追われ、そういう時間的余裕がないままに年月が過ぎ、ついには老齢に達してしまった。

 儒者としての才よりも、周旋の才の方がより長けていた。周囲がそう見ていただけではなく、甃庵自身、ある時期からそのことを自覚した。

「学者として、周旋の才に長けていることが、果たして誇るべき事柄なのだろうか?」

 甃庵はそう自問自答した。一般的に、学者とは世故に疎く、かつ庶事が不得手な人間群ではないだろうか。師の石庵は、家業として丸薬製造に着手し、軌道に乗せたものの、周旋の才があったとは思えないし、蘭洲も、またその父である持軒も、そういう物差しで考えると周旋の才とは縁遠く、いかにも学者らしい学者である。

 甃庵は、懐徳堂の運営に携わって以来、懐徳堂の維持発展に軸足を置き、曲がりなりにも懐徳堂という漢学塾の存在感を世間に植え付けることに成功した。だが、儒者としての業績はほとんど何も挙げることができず、老いを迎え、病に臥せる晩年に至ってしまった。

 懐徳堂の運営に多忙のあまり、経書研究ができなかったというのは、いかにももっともらしい物言いだが、甃庵の心の声は、それは言い訳に過ぎない、とつぶやく。漢学塾を構え、学派を主宰しながらも、多くの学問的業績を残した儒者は存在する。伊藤仁斎がそうであり、荻生徂徠もまたしかりである。中江藤樹、山鹿素行も、多くの著書を残している。

「忙中にあっても、その気になれば研究や著述の時間は捻出できたはずではないのか?」

 自分はその労を怠り、流されるままに月日を送ってしまっただけではないのか。

 甃庵は一夜、悪夢にうなされた。もう一度、三十年前に戻ってやり直したいと夢の中で思い、激しい後悔の念に襲われた。

 びっしょりと寝汗をかいて目覚めた甃庵は、しばらく茫然とした。過ぎ去った時間を取り戻すことなどできない。そう思い、暗澹たる気持ちになった。

 だが、と甃庵は思い直した。学問的業績を残せなかったのは、確かに自分の怠慢と言われればそれまでだが、自分の能力の限界によるものであって、それを嘆いても致し方ない。懐徳堂を維持発展させることだけで自分には精一杯であり、それ以上の余力はなかった。もし仮に、今から三十年前に戻れたとしても、恐らくさしたる学問的業績は残せず、結果は同じだったであろう。

 器量の多寡は、如何ともしがたい。それも開き直りに過ぎまいと心の声に指摘されても、もはや甃庵は、そのことで気持ちを揺さぶられることはなかった。

 幸い、二人の息子、竹山と履軒は、いずれも儒者として成長し、どこへ出しても引けをとらないほどの学識を備えるまでになった。竹山は早くも「左伝比事蹄」を著し、学問的業績を一つ残している。それに、父親の自分に似たのか、どうやら周旋の才があるらしい。

 一方、履軒は、師の蘭洲に似たのか、愚直な学者であり、多くの学問的業績を残せるだけの才能を秘めているとみて間違いない。

「学主は春楼が継ぐにしても、息子二人が健在なら、懐徳堂の将来はまず安泰であろう」

 やれるだけのことはやった。甃庵はそう思うと、ようやく気持ちが落ち着き、充足感と安心感とに包まれた。


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