(5-1)甃庵の遺書
懐徳堂のすぐ東側には、心斎橋筋が南北に通っている。
この筋の両側には小間物屋や呉服店、書籍商が多く立ち並び、流行りの飲食店などもあって賑やかである。幼少期の竹山と履軒は、蘭洲から禁じられていたため、この筋に足を踏み入れることはめったになかったが、成人してからは頻繁にここを訪れるようになり、そぞろ歩きしながらの書店めぐりなどを楽しんでいた。
周囲の人たちの多くは、いずれは兄の竹山が懐徳堂の学主を継ぎ、弟の履軒が預人として竹山を補佐し、二人協力しながら懐徳堂を運営していくことになるであろうと見ていた。
還暦を過ぎ、病気がちな甃庵は、大坂町奉行所への伺候や、町内の会合への顔出しなどの仕事を竹山に任せるようになっていた。竹山は、そういう仕事を卒なくこなし、甃庵を安心させた。
甃庵は、竹山に対しては懐徳堂の後継者としての役割を期待し、早くから預人の代理としての仕事に従事させたが、履軒に対してはあまり役割を与えず、自由に学ばせていた。
履軒は、ふだんは部屋に籠って昼夜問わず本を読んでいたが、ときどき旅に出た。二十歳のとき、友人とともに江戸へ行き、さらに陸奥へ足を延ばし、越後、加賀、越前を経て大坂へ戻ってきた。
その後、懐徳堂の改築で借金がかさんだため、甃庵の命で一家は不要不急の出費を禁じられた。旅行も禁止されたので、履軒は大人しくそれに従った。五ヶ年賦の借金が完済され、甃庵が緊縮家計を解除すると、履軒は再び旅に出た。
龍野の友人たちと堺、河内、大和五条を経て、吉野へ行った。後醍醐天皇や源義経、西行法師などの旧跡を見物してその感想を書き止め、帰途は奈良へ出て寺社を見物した。
帰坂後、有馬温泉へ出かけている。
その翌年には再び奈良を訪れ、前年立ち寄れなかった神社仏閣を見て回った。
奈良から帰ると、間を置かずして龍野へ行き、そこで約一ヶ月間滞在した。
宝暦四年(一七五四)、六十二歳になった甃庵は、遺書をしたためた。
持病の中風と、加齢による体力の衰えに危機感を抱いた甃庵は、万一の場合に備え、後事を決めておく必要があると判断した。
甃庵は、懐徳堂の次期学主に石庵の息子、春楼を充てることを明らかにした。
これには懐徳堂内外の関係者が驚いた。次期学主は竹山が継ぐものだと大方の人が思っていたからである。ないしは、短期間ながら蘭洲が学主を継ぎ、蘭州の後継を竹山が襲うと見る向きもあったが、そのいずれでもなく、春楼が後継学主だという。
甃庵は、多くの人からその理由を問われた。
「懐徳堂の定約に、学主の世襲禁止が定められている。そのため、善太(竹山)が学主を継ぐことはあり得ない。実のところ、蘭洲殿に後継学主就任を打診したのだが、丁重に断られた。蘭洲殿が言うには、自分は生来、表立つ立場には向かず、しかも、はや還暦に近く、体調が優れないことが多いため、学主の任には耐えられないとのことである。よって、石庵先生の一子、春楼殿に学主を継いでもらうことになった」
定約に「学主の世襲禁止」がうたってあることを知らない人が多く、そういう人は甃庵の話を聞いて、それならやむを得ないと合点した。
甃庵の本音は、春楼の後継指名は苦渋の選択であり、必ずしもこれが最善だとは思っていなかった。春楼を学主として戴くものの、実際の運営は蘭洲と、竹山、履軒が担えばいい。懐徳堂創設時、石庵が学主でありながら、実際には預人の甃庵が切り回していたのと同じ構図である。
「善太(竹山)には、預人を継いでもらう」
竹山は、甃庵からそう言われた。春楼を補佐して、滞りなく懐徳堂を運営せよとも言い含められた。石庵学主時代の甃庵の役割を担えという。
「徳二(履軒)は、懐徳堂講師として、春楼殿と善太を補佐せよ」
履軒は、甃庵にそう言われた。学主でも預人でもないが、日講を主導して懐徳堂の一方の顔となり、蘭洲の役割を踏襲せよという。
近隣住民の中には、懐徳堂は蘭洲の塾であると思っている人がけっこう多い。これまで甃庵は、しばしば龍野へ行って不在になり、休講することがあったが、蘭洲は不断に講義を受け持ち、休講することがほとんどなかった。だから、いつも懐徳堂にいる謹厳な先生は蘭洲であり、懐徳堂の顔だと思っている人は少なくない。
「蘭洲殿のような存在になれ」
そう言われた履軒は、尊敬する師のような役割を担うことをごく自然に受け止めた。
甃庵はまた、かつて五同志の一人であった舟橋屋四郎右衛門の同志復帰を発表した。
舟橋屋は、懐徳堂は石庵の家塾であると考えていて、石庵の死後、春楼が学主を継ぐべきだとの主張を譲らなかった。結局、甃庵が学主に就任するに及んで、同志を脱退した。
甃庵は、春楼を後継学主にすることを舟橋屋に伝え、同時に同志への復帰を要請したところ、舟橋屋は了承した。同志から外れて以来、二十四年ぶりの復帰となった。
宝暦六年(一七五六)、二十七歳になった竹山は、「左伝比事」の注釈書をようやく完成させ、「左伝比事蹄」と名付けた。
蘭洲からこの注釈の作業を課されたのは、竹山が十六歳のときであった。当時はまだ学力が及ばず、作業は困難を極めた。ついに音を上げて、一時中断したが、学力が充足するに及んで再開し、完成に至った。
蘭洲は、竹山を褒めたたえた。竹山は、これによって自信を深めた。
また、この年、竹山に慶事があった。
山城国葛野郡川島村西岡の名家、革嶋家の娘で、十六歳の順を妻に迎えた。
甃庵は、ことのほか喜んだ。竹山が妻帯し、これで安心して後事を託せる。
そう思って気が緩んだせいか、甃庵は、竹山の婚礼後に寝込んでしまった。
一時は意識不明となり、生命が危ぶまれたものの、持ち直して意識を取り戻した。
「今後、父上は静養専一にお過ごし下され」
甃庵は、竹山と履軒にそう言われた。
もはや甃庵が講義を担当することは不可能となり、竹山がその多くを引き継ぎ、履軒も一部を引き継いだ。また、懐徳堂の庶事はすべて竹山が引き受けることになった。




