(4-11)学びの深化
寛保三年(一七四三)、甃庵の勧めで、蘭洲は懐徳堂の右塾へ移り住むことになった。
右塾には、以前から春楼とその妻子が住んでいる。日中は使用人も出入りしていて、丸薬その他、薬品の製造を行っていた。
蘭洲は、隣り合わせに住むことになった春楼とは親しく話すことはせずに、堂内ですれ違っても軽く会釈する程度で、距離を置いていた。懐徳堂の業務に関与せず、石庵以来の家業である薬品製造を続ける春楼を容認する気にはなれなかった。
翌年秋、龍野に住む甃庵の母、そのの体調が悪化し、危険な状態との知らせを受けた甃庵は、妻子ともども龍野へ行き、しばらく滞在することにした。
竹山、履軒は学問修行中であり、二人は懐徳堂へ残して引き続き蘭洲の指導を受けさせるべきかと悩んだが、他事よりも孝行が優先することの実を示すために、あえて二人も同道させた。蘭洲に後事を託し、留守中、甃庵受け持ち分の日講は休講とした。
ところが、龍野へ着いてすぐに、甃庵は中風を発症し、安静を余儀なくされた。
「我れ一生の不覚」
母の見舞いと看病のために、一家を挙げて龍野へやってきたはずなのに、自分自身が病床に臥せる仕儀となってしまい、甃庵は歯噛みした。
幸い快方へ向かい、大事に至らずに済んだが、以後、甃庵は酒量を減らすなど生活習慣を改め、身体の養生に留意するようになった。
年が明けると、甃庵は、大坂町奉行所への年始のあいさつと、正月十五日の懐徳堂年初会のために単身帰坂したが、それ以外は龍野滞在を続けた。
延享二年(一七四五)二月、そのは息を引き取った。享年九十一歳。
大往生であった。葬儀が執り行われ、庶事を終えてから、甃庵一家は三月に帰坂した。
約半年に及ぶ留守中、懐徳堂の日講を粛々と続け、火を絶やさなかった蘭洲に、甃庵は感謝すると同時に、蘭洲への信頼の念をますます深めた。
懐徳堂講師としての蘭洲の評判は上々であり、懐徳堂と言えば蘭洲の漢学塾だと思っている近隣住人も多かった。直弟子として蘭洲に師事する門下生もつねに何人か存在した。
甃庵の日講が再開され、蘭洲による竹山、履軒への指導も再び始まった。
甃庵は、預人としての仕事にも精励した。
大坂町奉行所へは、年四度の伺候を欠かさなかった。年始のあいさつでは、正月二日に熨斗目姿で出頭し、片木に銀一両を乗せて献上した。暑中伺には、香り高い茶葉の大袋を進呈し、また、八朔には無紋白帷子にて参上し、銀一両を献上した。寒中伺は、裏付裃を着用して出向き、ここでも銀一両を献上した。
奉行や与力の交代時にも麻裃姿で参上し、相応のお祝い金を包んだ。
「奉行所との関係を良好に保つことは、懐徳堂の維持運営に不可欠である」
甃庵はそう考え、ややもするとごますりとも見なされがちな伺候をあえて励行した。
結果として、懇意になった奉行からは、寒暑には甃庵宛てに魚雁が届けられたり、また、奉行所役人が住む長屋へ部外者が立ち入り、役人と対談することは原則禁止とされているものの、甃庵は格別ということで、自由な出入りが認められていた。
竹山は十六歳、履軒は十四歳になり、二人とも基礎学力はほぼ固まった。それに応じて、蘭洲は二人に対する指導水準を徐々に高めた。
蘭洲は竹山に、「春秋左氏伝」の要約版である「左伝比事」という漢文の書物を手渡し、
「これに注釈を施しなさい」
と課題を与えた。
竹山は、「春秋左氏伝」を通読していたが、まだ十分に内容を理解できるまでには至っていなかった。「左伝比事」の内容も、ざっと見たところ、分からない箇所が多く散見された。
「何年かかっても構わぬ。やり通してみなさい」
「……はい、やってみます」
竹山は、不安な面持ちのままそう答えた。
蘭洲は、竹山の学力では、まだこの書に注釈を施すのは難しいと思っていたが、あえて難題を課すことで悪戦苦闘させ、もって飛躍的に実力を伸長させることを目論んだ。
竹山は、他の漢籍を学ぶ傍ら、「春秋左氏伝」や、その注釈書などを参照しながら、「左伝比事」に注釈を施していった。
だが、一句を注釈するだけで多大な時間を費やしてしまい、これを全部やり遂げるまでにいったいどれだけの時間がかかるだろうかと考えて、すっかりめげてしまった。
「蘭洲先生、どうもこの課題は、私には荷が重いようでして……」
「前にも言った通り、この課題は何年かかっても構わない。そなたが日々学び、実力を備えるにつれて、この書への注釈作業が徐々に捗るようになるであろう。あせらずにこの課題に取り組みなさい。私は期限を設けないし、また今後、そなたに進捗確認もしない」
蘭洲にそう言われた竹山は、自分の学力不足をもどかしく感じた。一刻も早く相応の学力を身につけ、この課題を完遂させたい。そう思って、日々の勉学により一層身を入れるようになった。
履軒は、竹山に劣らずに経書を熱心に読んでいた。字義や文意の解釈に敏感で、何度も繰り返し読み、かつ、数多の注釈書を参照しながら学んでいた。
折しも、儒学界では荻生徂徠の著作が広く読まれ、若い儒者を中心に、古文辞学が流行とも言える現象を呈していた。それを知った履軒は、徂徠の書いたものを読んでみたいと思い、甃庵にそう漏らした。ところが甃庵から、
「おぬしが正論たる儒学をしっかりと身につけ、正否の判断がつくようになってからにしなさい。それまでは徂徠の本を読んではならぬ」
と禁じられた。
履軒は承服できず、その足で蘭洲へ相談しに行った。
「徂徠の古文辞学は正論ではないと聞いていますが、その著作が広く読まれ、それを支持する人が多いというのもまた事実です。そこには傾聴すべき何かがあるのではないかと思うのですが、父からは読んではならぬと言われました。やはり、読んでは駄目でしょうか?」
徂徠の「論語徴」に反駁する「非物篇」を著したことがある蘭洲は、毅然と言った。
「古文辞学には、その著作を読むものを幻惑させるような面がある。それに、朱子学がもつ精神修養の側面を軽蔑し、それを排除している点にも大いに問題がある。父上の言われる通り、徂徠の書を読むのは、そなたが経書をしっかりと身につけ、みずから物事の価値判断ができるようになってからにしなさい。今の段階で読めば、いたずらに古文辞学に幻惑されてしまうだけで、そなたにとって決してためにならない」
「先生がそう言われるのであれば、考えを改めます」
履軒は、一礼して蘭洲の前から退出したが、納得したわけではなかった。いっそのこと、徂徠の著書をこっそり読んでしまおうかとも考えたが、やはり二人が揃って駄目と言うからには、それなりの害毒があるのだろうと考え直し、その挙には及ばなかった。
右塾に住む春楼は、製薬業が繁盛し、以前、懐徳堂支配人だった道明寺屋新助が住んでいた隣家を借り受け、そこに看板を掲げて薬店を張るようになっていた。石庵が開発した返魂丹のみならず、新たに春楼が調合した合わせ薬なども取り扱っていて、春楼とその使用人たちはせわしく立ち働いていた。
その様子を見て、甃庵と蘭洲は、顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
甃庵一家が龍野から帰坂した年の八月、五同志の一人だった道明寺屋吉左衛門の三男、富永仲基が、三十二歳の若さで病没した。
仲基は、石庵に師事して懐徳堂で学んだが、十六歳のとき、儒学の変遷史とも言うべき「説蔽」を著した。儒学の変遷は、後代に出された学説が、既存の学説を凌駕すべく理論武装を繰り返した歴史であると看破し、孔子と言えども、この変遷の中に位置付けられる学者の一人であると述べた。
儒学の始祖と神聖視される孔子をそのように客観視するのは大胆過ぎる着想であり、世間や学界からの反撥を懸念した甃庵は、「説蔽」の刊行を取りやめさせた。それを機に、仲基は懐徳堂を離籍し、その後は独自に学問の研鑽を重ねていた。
仲基は、既存の学説を凌駕するために、後代の学説は次々と新説を付加していくという現象は、儒学以外にも、仏教や神道にもみられると唱えた。これを「加上説」と名付け、「出定後語」や「翁の文」など、いくつかの画期的な著作を残した。
生来、蒲柳の質であった仲基は、病を押して学問に没頭した。学説というものが包蔵する運動律を的確に捉えるその洞察力は、凡人の域をはるかに超えていた。
甃庵は、仲基の葬儀へ参列し、早熟の天才の早過ぎる死を悼んだ。




