(4-9)蘭洲の復帰
津軽から江戸へ戻り、快適に江戸暮らしを送っていた蘭洲は、翌年四月、果たして藩主信著のお国入りの随行を命じられた。これが二度目の津軽である。
藩主への進講を受け持つ以上、藩主と行動を共にするのが当然であり、蘭洲は命に従うしかなかった。
不承不承ではあっても、いざ春の津軽に足を踏み入れると、山野の草花がいっせいに芽吹いていて、見晴るかす岩木山の山影がくっきりと映え、心躍る思いであった。
のどかな気候は夏、秋と続くが、冬になると様相が一変した。
気温が急激に下がって雪が降り、吹雪く日が多くなる。室内に籠り、火鉢を複数個熾して暖を取り、どてらを重ね着しても、寒さから逃れられなかった。
「二度目の津軽の冬であり、身体が寒さに慣れるのではないか」
ひそかにそう期待していたのだが、そうではなかった。寒さに苛まれて体調を崩し、熱を出して寝込むこともしばしばであり、一度目のときと変わりはなかった。
どうやら、今後も藩主に随行して、一年おきに津軽行きを命じられることになる公算大である。これ以上、津軽の冬を半病人のようになって過ごすのは無理だった。そのことを思うだけで気持ちが萎え、憂いに包まれてしまう。
ようやく一冬を越し、四月に信著の出府に随行して江戸へ戻った蘭洲は、津軽藩を致仕することに心を決めていた。実際には、来年春にまた津軽行きを命じられることになると思われるため、その前に暇をもらうつもりであった。
蘭洲は、徂徠の「論語徴」に反駁する書を年内に書き上げ、書名を「非物篇」とした。徂徠は自分自身を物部氏の子孫であると称して「物徂徠」と自署することが多く、それを受けて、徂徠のことを「物氏」と呼ぶ人がいた。「非物」とは、物氏に非を唱える、という意である。
蘭洲はこれを手稿本とし、いずれ機会があれば出版するつもりでいた。
年が明けた元文五年(一七四〇)一月、病気を理由に津軽藩を致仕したい旨、蘭洲は江戸家老へ申し出た。慰留されたが、たっての願いであると申し述べると、離藩が許された。
津軽藩儒となり、この職に骨を埋める覚悟で身を投じたものの、仕官八年にして致仕することになった。このとき蘭洲四十四歳、人生の仕切り直しはまだ終わっていなかった。
津軽藩上屋敷を退去し、兄の純実の屋敷がある日本橋大伝馬町へ移った。いくばくかの貯えがあるため、しばらくは休養し、今後の身の振り方は改めて考えればいい。蘭洲はとりあえず、諸方の知人あてに津軽藩を致仕した旨を手紙で知らせた。
懐徳堂の甃庵へも手紙を出したが、すぐに返信が届いた。
「これを機に大坂へ戻り、再び懐徳堂の講師を引き受けてもらえないだろうか?」
甃庵からの手紙には、そういう主旨が書かれてあった。
懐徳堂の講義はすべて甃庵一人で受け持っており、しかも支配人の新助、五同志の一人である道明寺屋も亡くなり、運営に支障を来たしがちであるという。津軽藩を致仕したことを奇貨とするようで恐縮ながら、蘭洲の懐徳堂講師への復帰を切望するとの由である。
それに加えて、甃庵からの手紙にはもう一条、蘭洲への依頼事項が記されてあった。
蘭洲は、甃庵からの手紙に心を動かされた。十一年前、大坂へはもう二度と戻ることはないと思って離坂したが、無職となった今、大坂へ帰ることがとても魅力的な企図であるように感じた。懐徳堂の講師となって粛々と日講をこなしつつ、その合間に読書、著述を行い、かつ、もう一つの甃庵の依頼事項に応える暮らしも悪くない。
蘭洲は帰坂を決意し、甃庵あてに、懐徳堂への復帰を承諾する旨の手紙を出した。
おっつけ、甃庵からは謝辞が送られてきた。勝手ながら多事多端の折ゆえ、早めの来坂を乞うとも記されてあった。蘭洲は苦笑した。
三月末、荷物をまとめた蘭洲は、桜が満開となった江戸を発し、大坂へ向かった。途中、春の陽気に包まれた東海道をあちこち寄り道しながら歩むその足取りは軽快だった。




