(4-8)津軽藩儒
蘭洲は、本所二つ目にある津軽藩上屋敷内の長屋に住んでいる。自室の窓からは桜の木が見える。三月頃は花が見事に咲き誇っていたが、すでに葉桜である。
津軽藩儒として、上屋敷内で藩士向けに経書の講義を受け持つようになってから三年、蘭洲は、藩主である津軽出羽守信著の御前でも講ずるようになった。信著はこのとき十七歳、十三歳で家督を継いだ青年藩主であった。
翌年の享保十八年(一七三二)五月、信著が津軽へ帰国するに際し、蘭洲は随行を命じられた。仕官して四年、ずっと江戸詰めだったため、蘭洲にとって初めての津軽であった。
蘭洲は、弘前城内で信著へ経書を講じる一方、藩士向けの講義も受け持った。
津軽の気候は、江戸に比べて冷涼であり、春、夏、秋は快適に過ごした。
ところが、冬が到来すると大雪が降り、しかもその寒さに辟易した。
「これほど寒いとは思わなかった」
中年の齢に達したせいか、若い頃に住んだ信州飯山の冬よりも寒さが身に沁みた。
蘭洲は、自分の体質ではこの寒さを凌ぐことが容易ではないことを思い知らされた。自室では火鉢から離れられず、どてらを何枚も着込んでひたすら寒さを耐え忍んだ。
ときには風邪を引き、熱も発した。そういう場合は生姜とにんにくをおろして食べ、葛根湯を入手できればそれを服用し、あとは布団を重ねて寝た。
そんな津軽の冬をやっと乗り越え、春になった。弘前城の桜は噂に違わず見事であり、蘭洲の五感に春到来の歓びを喚起させた。
四月、信著の出府に随行して江戸へ戻った。
参勤交代で、信著が次に国元へ戻るのは来春である。藩主への進講を受け持つ蘭洲は、次回も津軽への随行を命じられる可能性が高い。
「この先ずっと、江戸と津軽とを一年おきに行き来することになるかもしれない」
津軽の冬の寒さを思うと、気分が沈んだ。春の桜は目が洗われるような美しさではあるが、冬の恐ろしさは春の歓びを凌駕していた。
ささやかに願っていた大名家の藩儒としての仕官が叶い、しかも藩主への進講を受け持たされるまでになり、そういう身分になれたことは自身の誇りであった。
その一方、津軽藩全体として、儒学に対する意識が低く、藩士たちの学ぶ意欲も高くないことに蘭洲は失望していた。そもそも藩主信著自身が、学問を好まない性向であることが蘭洲を落胆させていた。それに加え、窮屈な宮仕え自体が、蘭洲の本性に合わないことも悩みの種だった。
初夏の季節が到来すると、蘭洲は元気を取り戻した。そこで、かねてから構想を練っていた、荻生徂徠の「論語徴」に対し反論するための論稿を起こすことにした。
徂徠の古文辞学は、江戸で流行りと言えるほどに儒学界を席巻していた。朱子学はもう古い、今は古文辞学だ、蘐園学派だと、若い儒者が声高にそう主張して憚らなかった。
確かに徂徠の文章には切れがあって、読んでいて欣快に思うことしばしばである。漢文を白文のまま、返り点や送り仮名なしに読みこなし、かつ書き下すことができたという徂徠の学識は、古今を通じて本邦屈指であったとすら言えるかもしれない。
だが、徂徠は儒学を学ぶ目的を技能習得であると決めつけ、心を磨き、人格を陶冶することにはあらずと言う。蘭洲にとって、徂徠の主張は危険思想であるとしか思えなかった。
蘭洲は、藩主への進講や、藩士への講義の合間に、少しずつ稿を書き連ねていった。
元文二年(一七三七)、懐徳堂創立以来、支配人として事務を補佐してきた道明寺屋の手代、新助が死去した。新助亡き後、懐徳堂では支配人を置かず、学主兼預人である甃庵が事務一切を取り仕切ることとなり、甃庵はますます多忙を極めるようになった。
二年後の元文四年(一七三九)、五同志の一人、道明寺屋吉左衛門が亡くなった。享年五十六歳。
三星屋亡き後、甃庵が最も頼りにしていた人物であった。懐徳堂を支える人物が次々と物故し、ますます甃庵の双肩にその負担がのしかかるようになった。
道明寺屋吉左衛門の死後、長子の宗太郎が後を継ぎ、同志の一人に加わった。




