表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第4章 甃庵と蘭洲
30/75

(4-7)世襲禁止


 甃庵は、息子の竹山と履軒を養育する部屋を「龍珠楼(りゅうじゅろう)」と名づけた。龍珠とは、龍が持つ珠玉のことで、龍の力の源泉であるという。この部屋の南側の窓外にぶどう棚がつくられていて、その熟した実を龍珠に見立てた。

 竹山が四歳の頃、古義学の大儒、伊藤東涯が京都から懐徳堂へやってきた。龍珠楼で、東涯が竹山を膝の上に抱き上げると、竹山が小便をし、東涯の着衣を汚した。

 甃庵は東涯に詫びたが、東涯は笑って、

「この子は将来、私に小便をかけるような人物になるかな」

 と言った。

 竹山が五歳になったとき、乳母が竹山に教えた。

「誰かに歳を聞かれたら、右手の五つの指をみんな開いて見せなさいね」

 竹山は乳母の教えを守り、歳を聞かれると右手の五本の指を開いて見せていた。

 ところが、六歳になっても、歳を聞かれる都度、右手の五本の指を相手に示した。乳母が注意してもなかなか直らず、その癖は七歳まで続いた。

「この子は将来、大丈夫だろうか?」

 甃庵は、そんな竹山の様子を見て不安になった。

 その一方、甃庵は、竹山が三歳のときから四書の素読を施しているが、竹山のもの覚えは悪くなかった。むしろ、人並み以上に筋が良いように感じられた。

 どうやら凡庸ではなさそうだと、甃庵は不安を和らげた。

 次男の履軒も、三歳のときから素読を始めさせたが、筋は悪くない。甃庵の音読の声に倣って、飽きもせずにいつまでも声出しを繰り返していた。

 享保十九年(一七三四)、甃庵の弟、常庵が龍野で死去した。享年三十九歳。

 常庵は、家族の事情に流されるままの流転の生涯であった。それにしてもその死は早過ぎる。甃庵は懐徳堂の日講を休止して龍野へ行き、常庵の墓前でその死を悼んだ。

 享保二十年(一七三五)、懐徳堂では、全七条からなる「定約(ていやく)」を定めた。

 定約には、懐徳堂の講義は四書五経を中心とし、例えば詩文の教導等に流れるのを禁止することや、毎月、学主、預人、同志が集まって勉強会を行い、その内容は主に孝子伝や陽明学の書を学ぶこと等が明記された。

 特筆すべきは、学主の世襲禁止を明確に規定したことであった。

「懐徳堂は私塾ではなく、その学主は、あくまでも学識と人物とを勘案した上で選定する」

 石庵が没し、次の学主を決める際、舟橋屋は、懐徳堂はあくまでも石庵の私塾であり、石庵亡き後にその息子、春楼が学主を継ぐのが当然だと強硬に言い張った。結局、その主張が通らないと悟るや、舟橋屋は同志を脱退した。

 今後、この轍を踏まないために、あえて世襲禁止の規定を設けた。

 毎月の同志勉強会で陽明学のほか、孝子伝を会読するというのは、甃庵の強い思いを反映したものであった。

「儒学の根幹は、人倫を陶冶することにあります。儒学を講じる懐徳堂の運営者である我々が、孝行の事例を積極的に学び、率先してそれを実践することはとても意義あることであると考えます」

 甃庵はそう述べ、「孝」を重視する姿勢を明らかにした。

 元文三年(一七三八)、「桂屋事件」と呼ばれる出来事が起こった。

 堀江で廻船業、桂屋を営む太郎兵衛の持ち船が、秋田から大坂へ米を運ぶ途中、暴風に遭って難破した。船頭の新七は、破損した船で何とか大坂へ帰港したが、積み荷はすべて海中に沈んでしまったと荷主に報告した。

 ところが、実際には積み荷は無事であり、新七はひそかに米を売りさばいて換金していた。新七はそのことを主人の太郎兵衛に打ち明け、得た金を山分けしようと誘った。太郎兵衛は迷ったが、結局その金を受け取ってしまった。

 やがて事実が発覚。新七は逃亡したが、太郎兵衛は大坂町奉行所に捕縛され、裁きの結果、死罪が言い渡された。

 太郎兵衛には四人の実子と、一人の養子がいた。十六歳の長女、伊知は奉行所へ出頭し、

「父は子供たちを養育するために、迷った挙句にお金を受け取ってしまいました。だから父に罪はなく、罰せられるべきは私を含めた子供たちです」

 と訴えた。奉行所ははじめ、これを却下したが、再尋問の結果、伊知の願いが孝に根差した誠実なものであることを認めた。

 そのため、この年に行われた桜町天皇の大嘗祭の特赦として死一等を減じ、太郎兵衛は大坂三郷払いに処されてこの事件は決着した。

 この出来事を知って感銘を受けた甃庵は、「五孝子伝」という書物を著し、伊知ら太郎兵衛の子供たちの行いを顕彰した。

 甃庵自身も、母親そのに孝養を尽くし、しばしば龍野へ帰ってそのを見舞い、ときには物見遊山に連れ出したりもしていた。孝子顕彰活動は、懐徳堂が積極的に取り組むべき柱のひとつであると甃庵は位置付け、周囲にもそう語った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ