(1-3)含翠堂(がんすいどう)へ
すでに子の刻(午前零時頃)を過ぎたであろうか。平野郷へ向けて出発した石庵であったが、疲れと睡魔とでそれ以上歩き続けることができなくなり、大坂城の東南にある森宮神社の東、猫間川のほとりに立つ古木の下で仮眠をとることにした。春楼ともども、木の幹へ寄り掛かるようにして身体を休めた。
目が覚めたときには、空は薄明るくなっていて、木の幹に寄り掛かっていたはずの身体が地面に横倒しになっていた。
やがて春楼も目を覚ましたので、二人して猫間川の川べりへ行って顔を洗うと、再び平野郷へ向けて歩き出した。
外がすっかり明るくなった頃、含翠堂に到着した。学舎には誰もいなかったので、その隣にある井上赤水の屋敷へ行き、玄関で案内を乞うた。
「石庵先生、ご無事でしたか?」
赤水は石庵を見るなり、そう言った。
「赤水殿、ご存知でしたか?」
「道頓堀付近から出た火事が燃え広がって、船場一帯が焼けたと、昨日、城下へ行って帰ってきた近所の人から聞いていました。あのあたりには私の知り合いが多くお住まいなので、皆さんどうされているかと案じておりました。石庵先生がご無事で安堵しました」
「この通り、焼け出されてほとんど身一つで逃げ出してきた次第です」
石庵は赤水へ、春楼ともども当面の間、ここに身を置かせてもらえないかと依頼した。
「ただ飯を食おうとは思っておりません。春楼にはお屋敷のお手伝いをさせますし、私は含翠堂で講義を受け持たせていただけましたらと思います」
「承知致しました。ご子息ともども、しばらく当家にてご逗留され、今後の計画はおいおいに立てられるのが上策かと思います」
石庵は、赤水の厚意に感謝の意を述べた。
父子二人には一室があてがわれた。部屋へ入ると風呂敷包みをほどき、亡き妻と、夭折した子供たちの位牌を床の間に並べ置いた。自著はすべて失ってしまったが、家族の位牌を無事にここまで運びおおせたことで、石庵は心なしか気持ちに潤いを感じた。
理不尽とも言える災害を経験し、人間の営為の脆さ、儚さが痛いほど身に沁みた。みんなが汗水たらして築き上げてきた建造物が、物が、はたまた人の命までもが、猛火に一舐めされることで無残にも失われてしまう。
だが、これほど絶望的な状況下にあっても、人は人に助けられることで救われる。人の世は脆く、儚いにせよ、人と人とのつながりさえあれば、それを拠り所にして人は生きていける。石庵は、こういう事態に陥ったつらさは容易には癒しがたいものの、それでも投げやりになっては駄目だと、少し張りが戻った心で自分にそう言い聞かせていた。
「享保の大火」と称されるこの大火事は、享保九年(一七二四)三月二十一日午の刻(正午頃)、道頓堀から北へ約二町ほど入った南堀江橘通三丁目の金屋治兵衛の祖母、妙知の家が火元であったため、「妙知焼け」とも呼ばれた。強風に煽られて延焼を繰り広げ、結局、翌日の申の刻になってようやく鎮火した。実に二十六時間にも及ぶ大火災であった。
この火事で、南は道頓堀を越えて難波新地まで、西は阿弥陀池の線まで、北は中之島、堂島を越えて天満、曽根崎の村はずれまで、東は大坂城西外堀の線まで焼失し、大坂城や心斎橋筋は焼け残ったものの、市域の三分の二が灰燼と化した。
大坂の東西町奉行所や大坂天満宮なども全焼し、罹災町数四百余、家屋数万軒、大名屋敷数十ヶ所、土蔵数千ヶ所もの被害に及び、死者は数千人から数万人と言われた。焼死者が多かったが、中には避難途中に人波に押しつぶされて圧死した人や、川や堀へ飛び込んで溺死した人もいた。
石庵は妙知焼けから約一ヶ月後、この大火事の惨状を知人宛てに手紙で伝えた。




