(4-6)中井履軒生誕
享保十七年(一七三二)、江戸暮らしも三年が経ち、大坂に比べてあまり美味でもない水にもようやくなじんできた蘭洲は、相変わらず兄の純実の屋敷で起居しつつ、三輪執斎の明倫堂で働いていた。
執斎も、純実も酒を好まないため、酒好きの蘭洲にとって、当初は酒の相方がいないことがつらかったが、やがて一人飲みの醍醐味を知った。
蘭洲は、近所の屋台で江戸前寿司やてんぷら、どじょう汁などの肴を調達し、自室にこもって伊丹や池田、灘の下り酒を存分にあおった。時折、うなぎを奮発することもあった。
鯨飲し、したたかに酔うと、口をゆすいで布団をかぶり、泥のように寝た。
むしろ、人に気を遣う酒席よりも、一人黙々と飲む酒の方がうまい。宿酔にならない体質の蘭洲は、これが何よりの楽しみだった。
ある日、執斎に呼ばれ、蘭洲は明倫堂の奥座敷へ招じ入れられた。
「実は、仕官の話がきております」
陸奥弘前の津軽家四万六千石と、伊予大洲の加藤家六万石から、それぞれ儒者を推挙してほしいとの依頼がほぼ同時にきたという。
「蘭洲殿の学識なら、十分にその役割を全うできると思い、どちらかの御家へ推挙したいと考えておりますが、いかがでしょうか?」
「これは、思いもよらぬお話」
執斎は、弟子の川田雄琴をもう一人の藩儒として推挙すると言った。
「津軽藩、大洲藩どちらにするかについては、蘭洲殿の希望を考慮します」
執斎にそう言われて、蘭洲は思案したが、雄琴が大洲藩への仕官を希望していることを知り、それならばと津軽藩を選ぶことにした。
津軽藩領は寒冷地であり、城下は弘前にある。寒さが苦手な蘭洲は、そのことに一抹の不安はあったが、おおむね江戸詰めの勤務であり、国元へ赴くことはほとんどないと聞いたので、ひとまず胸をなで下ろした。
待遇は、御手廻格、三十人扶持である。蘭洲は、本所二つ目にある津軽藩上屋敷内の長屋へ移り住み、月三回、藩士への四書の講義を受け持つことになった。
「これが、生涯における最後の仕切り直しになるかもしれない」
蘭洲は、津軽藩儒として骨を埋めるつもりで仕事に取り組もうと気を引き締めた。
蘭洲が津軽藩へ仕官した年の五月二十六日、大坂では甃庵の妻、早が第二子を出産した。
頭の大きな嬰児であった。よちよち歩きの竹山は、生まれたばかりの二歳年下の弟のそばへやってきては、ものめずらし気にその頬に触れたり、じっと顔を眺めたりしていた。
甃庵は、この次男の名を積徳、字を処叔、通称徳二と名づけた。長男の竹山の名が積善、通称善太で、「善」の字を当てたが、次男には「徳」の字を当てた。それぞれ、善の人であれ、徳の人であれと、甃庵は願いを込めた。
この嬰児は後年、履軒と号した。
履軒が生まれる少し前、五同志の一人、三星屋武右衛門が死去した。享年五十九歳。
五同志の中で最年長、かつまとめ役であり、甃庵が最も頼りにしていた人物であった。
三星屋武右衛門の死後、息子の庄蔵が後を継ぎ、同志の一人に加わった。




