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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第4章 甃庵と蘭洲
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(4-3)富永仲基


 五同志の一人、道明寺屋吉左衛門には、五人の息子がいた。ただ、次男は夭折したため、成年まで成長したのは四人であった。

 四人とも懐徳堂で学び、かつ年少の末子以外の三人は、石庵の直弟子として師事した。

 なかでも、三男の仲基(なかもと)の早熟ぶりは目を見張るものがあった。生まれつき蒲柳の質であり、発熱して寝込むことが多かったが、興が乗ると、食事も睡眠も忘れて読書に没頭するという猛勉強ぶりで、四書五経はもとより、儒学の主要な漢籍はほぼ渉猟し終えていた。

 石庵も、父親の道明寺屋も、そんな仲基を末恐ろしく感じていた。

「仲基殿は将来、学派を成すほどの儒者になるであろう」

 石庵は、周囲にそう漏らしていた。

 享保十五年(一七三〇)、一六歳になった仲基は、一編の論文を執筆し、それを石庵に提示した。

 「説蔽(せつへい)」と名づけられたその論文は、儒学の変遷史とでも言うべき内容であった。

 仲基はこの論文で、

「後代に出された儒学の学説は、既存の学説を凌駕するように理論武装する傾向がある」

 と主張した。

 すなわち、儒学の始祖とされる孔子は、先時代の聖君たる(ぎょう)(しゅん)の世こそ理想的な社会であると説いたが、孔子よりも後世に生まれた墨子(ぼくし)は、孔子の説を踏襲しつつも、舜から禅譲を受けた()の夏王朝を理想とした。

 だが、墨子よりも後代の楊朱(ようしゅ)は、堯・舜・禹よりも先時代の黄帝(こうてい)の世を賞揚し、さらに許行(きょこう)は、黄帝よりも以前にさかのぼって神農(しんのう)の世を理想とした。

 それに留まらず、荘子や列子の徒は、神農よりもさらに先時代の無懐(むかい)葛天(かってん)鴻荒(こうこう)の世こそ賞賛すべきと説いている。

 これらは、後代の学者が、先代の学説の上へ踊り出るために、次々と新解釈を加えていくという運動律の表れではないか。「新解釈を加えて上へ踊り出る」という現象であることから、仲基はこれを「加上説(かじょうせつ)」と名づけた。

 病床にあった石庵は、「説蔽」を読んで驚嘆した。

 十六歳の若者が、これほどの説を唱えるだけの見識をもっていることがまず驚きであった。石庵は青年期、誰にも負けないぐらい刻苦勉励したと自負しているが、自分が十六歳当時、これに匹敵する見識を持っていたかと問われれば、否と答えざるを得なかった。

 それに、孔子ですら、加上の法則の中に位置付けられる学者のうちの一人と見做す冷徹さに凄みを感じた。孔子は儒学の始祖であり、神とも言うべき唯一無二の存在であって、不可侵であることが学界における暗黙裡の通念である。仲基は、そんなことには一切頓着せず、堂々と自説を主張している。

 これを世間に公表したら、大きな波紋を呼ぶかもしれない。石庵はそう思った。

 その一方、仲基の中にある反骨精神に感じ入った。石庵は若い頃、主張の違いから師匠の浅見絅斎と訣別し、破門された。今にして思えば、若気の至りと思わなくもないが、あの当時はああするしかほかにやりようはなく、既成の価値観などものともしなかった若き日の自分を、含羞とともに懐かしく思い出した。

 翌日、甃庵と道明寺屋が石庵の病床へやってきた。仰臥していた石庵は半身を起こした。

「仲基殿の『説蔽』、石庵先生はどう思われますか?」

 甃庵がそう訊ねた。

「仲基殿の見識の高さにはただ驚くばかりである。十六歳にしてあれだけのものを書くとは、まさに麒麟児と呼ぶにふさわしい」

「仲基殿は麒麟児と言うよりも、怪物かもしれません」

「私も、甃庵殿の言う通りだと思います」

 道明寺屋はそう言って、続けた。

「我が子ながら恐ろしさすら感じます。いつの間にやら学問がこれほど深まっていたとは思いも寄りませんでした。これも石庵先生のご指導のたまものではありますが」

「私の垂教など、たかが知れています。ひとえに仲基殿の自学自習の成果です。ただ、昼夜を分かたぬ猛勉強ぶりで、体を壊さないかと心配です」

「そうなんです。仲基は体が弱いため、熱を出してよく寝込むのですが、それなのに夜通し本を読んでいることが多くて。私が何度注意しても、いっこうに生活態度を改めません。遊び呆けているわけではないので、何とも悩ましい限りです」

 道明寺屋は、ため息をついた。

「仲基殿は、この論文を公表したい、できれば出版したいと望んでいるようですが、私は反対です。孔子も、儒学の歴史の中に位置付けられる一人の学者に過ぎないという主張は、多くの儒者からの非難が巻き起こるでしょう。それに、仁斎先生や徂徠先生の学説へも批判を加えていて、古義学派、蘐園学派の面々からの反撥を招くことにもなるでしょう」

 甃庵はそう言った。

「私も、この論文の公表には反対です。仲基はまだ年若く、しかも病弱な質ですので、世間から非難されることは心身ともに大きな負担になるのではないかと心配しています」

「それに、懐徳堂に対しても非難の渦が巻き起こるのは不可避かと」

 懐徳堂の門下生である仲基の主張は、世間からは懐徳堂の主張であると受け取られる可能性が高い。官許を取得した懐徳堂が、孔子を加上説における一学者に過ぎないと述べたと解釈されると、公儀からお叱りをこうむるかもしれない。甃庵はそれを懸念していた。

「そこか」

 石庵は苦笑した。

 仲基に覚悟があるのであれば、この論文を公表してもいいのではないか。自身で考究した学説を開陳するのは学者の本分であり、たとえそれが一般通念に照らし合わせて不可侵の領域に抵触するにせよ、そこで議論が巻き起これば、新たな潮流が生まれる可能性だってある。学問の進歩とは、そういう過程を経てもたらされるものではないのか。

 その一方、道明寺屋や甃庵の懸念も分からなくはない。いくら仲基に覚悟があるとしても、その風当たりは想像以上であるかもしれない。それによって、非凡な才能を有する仲基の将来の飛躍の芽が摘み取られてしまうことだってあり得る。

 自分はこの先もう長くない。石庵は最近、そう感じることが多くなっていた。懐徳堂の将来を考えた場合、こういう問題の可否判断を自分が行うべきではなく、今のうちから後任の学主になるであろう甃庵の差配に任せた方が良いのではないか。石庵はそう考えた。

「ついては仲基殿には、この論文は公表しない、と言い含めたいと思います。先生、それでよろしいでしょうか?」

「道明寺屋さんと甃庵殿の判断に任せます」

 石庵は、二人にそう伝えた。

 後日、仲基は懐徳堂を離籍した。今回は「説蔽」の公表を断念したが、今後、自説を主張することで、懐徳堂に迷惑をかけることにもなりかねないからとの理由であった。

 仲基の学識は、すでにいっぱしの儒者と称していい水準に達している。それどころか、将来、一学派を形成する可能性を秘めた才能を有しており、どうかそれを大事に伸ばしていってほしい。石庵はそう願った。


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