(4-2)江戸の水
享保十四年(一七二九)夏、三十三歳の蘭洲は懐徳堂を辞し、江戸へ発った。
「もう大坂へ戻ることはないであろう」
そう思うと、ふと郷愁のようなものに襲われ、目頭が熱くなった。だが、人生とは仕切り直しの連続である。そう自分を戒めて、甘い感傷に浸ることをみずからに禁じた。
これまでは運命の奔流に流されるままに過ごしてきた。今般、江戸へ出る決断をしたのは、そういう流れに抗って、みずからの意志で人生を切り開くという決意表明でもあった。
遅ればせながら、これからが本当の青春である。蘭洲はそう思い、気持ちが昂った。
東海道を東行すること約二十日で、江戸へ到着した。
兄の純実が住む日本橋大伝馬町に落ち着き、荷をほどくと、翌日、三輪執斎の漢学塾、明倫堂がある下谷へ出向いた。
明倫堂の玄関で案内を乞うと、執斎みずからが出てきて、蘭洲の手をとった。
「貴殿のことは石庵先生からうかがっております。私は、生前の持軒先生には一方ならずお世話になりました。そのご子息とこうしてお会いできることをとてもうれしく思います」
予想外の執斎の感激ぶりに、蘭洲の緊張は一気にほぐれた。
「なにぶん、江戸は初めてですので、右も左も分かりません。よろしくお導き下さいますよう、お願い申し上げます」
蘭洲がそうあいさつすると、執斎は蘭洲を座敷へ招じ入れた。
「もし、江戸での仕事が決まっていないようでしたら、ぜひ、当塾をお手伝い下され」
蘭洲は承諾し、その日から執斎の明倫堂で働くことになった。
蘭洲は、執斎が手掛けていた「王陽明全集」へ訓点を施す作業に参画し、それと並行して、塾の講義も一部受け持った。主に「孟子」と「左伝」を講じた。
すぐに仕事が決まり、蘭洲は閑暇をもて余す間もなく、忙しい毎日を送ることになった。
江戸は、大坂とは違っていた。
大坂は町人の街であるが、江戸では旗本、御家人のほか、諸藩の江戸詰めの武士が多く、肩衣や羽織袴を身に付け、帯刀した者が街中を闊歩していた。
江戸の武士は凛々しいもの、という先入観を抱いていた蘭洲は、その挙措動作が町人のそれと大して変わりないことに少なからず失望した。町方役人は威張っていても学識はなく、大名は華美さに欠け、小名は遊蕩に堕し、槍持ちの奴たちの下品さに至っては目を覆いたくなるばかりであった。
また、江戸は火事が多く、あちこちで頻繁に小火騒ぎが起こるのを目にし、耳にもした。妙知焼けで焼け出された蘭洲にとって、火事は忌避すべきものであり、火事と聞くだけで体に緊張が走った。
それに、水がおいしくなかった。江戸の水を飲んで、改めて大坂の水が美味であったことを悟った。
「江戸は下国であり、大坂は楽土であったと思わざるを得ません。網島の蒲焼と銘酒が恋しく感じられる今日この頃です」
蘭洲は、甃庵へ宛てた手紙にそう記した。
かと言って、江戸に愛想を尽かして大坂へ舞い戻る気は少しもなかった。蘭洲の愚痴は、新たな生活へ飛び込んだ興奮と充実との裏返しであって、日々見聞する事物や出来事を新鮮なものに感じていた。
荻生徂徠の著作をひもとくようになったのは、江戸へ来た翌年からである。
徂徠は、朱子学や伊藤仁斎の古義学の説教臭さを批判し、新たに「古文辞学」を提唱した。弟子たちとともに「蘐園学派」を形成し、その著書は多くの若手儒者を惹きつけ、儒学界では流行とも言えるほどに読まれていた。
江戸での暮らしにもようやく慣れ、遅い青春を謳歌する余裕ができた蘭洲は、評判の古文辞学に触れようと思い、まずは徂徠初期の著作「蘐園随筆」、次いで「訳文筌蹄」を読んだ。
「小気味いい」
徂徠の文章の切れの良さと、博覧強記、それに文章論の斬新さに目を洗われたような爽快感を味わい、これは評判に違わぬ傑物であると思った。
続けて、古文辞学の集大成と言われる「弁道」、「弁明」、「論語徴」を読んだ。これらは朱子学を批判し、孔子よりもさらに過去の堯・舜の世を理想と述べた著作であった。
読んで、なるほど、と思ったりもしたが、やがて、これはどうもおかしい、と感じるようになった。
「すべて堯・舜の世が正しく、後世の人々はおしなべて堯・舜の倣いに服すべき、という主張は、あまりにも強引過ぎる」
徂徠の主張は、この世の現実とかけ離れていると感じた。世の中とは、過去からの伝統を踏まえた上で、不十分な点を改善、改良しながら進んでいくものであって、すべての規範が、過去の一時期に定められたもので固定化される、という考え方には首肯しかねた。
蘭洲が最もゆるがせにできないと感じたのは、徂徠が、朱子学の精神修養、人格陶冶の側面を軽蔑、排除している点であった。
「学問をする目的は、技能習得にあるのであって、徳性を涵養し、心胆を錬磨して道学先生になるために行うものではない」
徂徠は、著書で堂々とそう述べている。
蘭洲にとって、学問をする目的の第一は、まさに精神修養、人格陶冶であり、技能習得は二の次、三の次と考えていた。徂徠の考え方は、蘭洲の考えとはそぐわなかった。
蘐園学派の儒者たちの風紀は乱れているとの評判を耳にしたことがある。対馬藩儒の雨森芳洲が、徂徠の学識を見込んで、息子を徂徠に入門させたが、悪しき評判を聞いて、すぐに息子を呼び戻したという。
朱子学の道義的側面を軽蔑する古文辞学が、儒学界で一世を風靡する勢いであることに、蘭洲は危機感を覚えた。こういう風潮に、何らかの歯止めがかけられないものだろうかと思案するようになった。
一方、大坂の甃庵は、蘭洲が江戸へ去って以降、井上赤水が一部を受け持つ以外の日講をすべて引き受け、かつ預人としての雑務にも追われていた。当初はそのあまりの忙しさに辟易していたが、やがて、そんな生活にも心身が慣れ、懐徳堂の運営全般を自分が切り回していることに快感すら覚えるようになった。
気持ちに余裕ができたところで、かねてからの懸案である懐徳堂の敷地問題の解決に着手することにした。
懐徳堂の敷地二百二十坪強は、道明寺屋と尼崎屋が所有する土地である。官許取得の際、この土地は永代拝領地として懐徳堂へ下げ渡されることになり、その代償として、道明寺屋、尼崎屋へはそれに見合う適当な代地が与えられることが奉行所から言い渡されていた。
ただし、適当な代地が決まるまでは、懐徳堂は両家と賃貸契約を結び、相応の借地料を支払うことになっていて、実際、懐徳堂はその支払いを続けていた。
だが、その後、代地の話は進展しておらず、両家への借地料支払いの費用負担は決して軽いものではなかった。甃庵はこのことを憂慮していた。
甃庵は大坂町奉行所へ働きかけて、この問題の解決を図ろうとしたが、適当な代地が見つからないという理由で、奉行所がきちんと取り合ってくれなかった。
そこで甃庵は、別の打ち手を講じた。
享保十五年(一七三〇)三月、懐徳堂の日講を当面休止すると発表し、甃庵は江戸へ赴いた。江戸では大島古心や室鳩巣、それに勘定方の役人らと面会し、代地問題解決の後方支援を要請した。古心と室鳩巣は、
「上へ伝えます」
と言い、甃庵の願いの聞き届けを約束してくれた。
甃庵は帰坂し、日講を再開した。




