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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第4章 甃庵と蘭洲
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(4-1)蘭洲の旅立ち


 甃庵と蘭洲は、石庵の居室を訪ねた。

 石庵は、病床に就くことが多くなっていた。日講から離れ、ときどきは直弟子へ指導することはあったものの、すでに新弟子はとらなくなっていた。

 石庵が用件を問うと、甃庵は蘭洲を横目で見た。蘭洲は、居住まいを正して、言った。

「実は私、江戸へ出たいと思っております」

「江戸へ?」

 蘭洲の兄、五井純実(ごいすみざね)は、京都の鷹司家へ仕えていたが、このたび鷹司家を辞し、公儀の御先手組鉄炮与力(おさきてぐみてっぽうよりき)として二百五十石で仕官することになった。

「兄が江戸在住となったのを機に、私も江戸で兄と同居したいと考えております」

 蘭洲は、かねてからの希望を述べた。

「以前から、蘭洲殿は江戸行きを希望しておられた。このたび、兄御の江戸着任が決まったのは、ちょうど良い潮が巡ってきたと言うべきです。幸い、甃庵殿が播州龍野へ帰る用事が大幅に減り、日講に専念できるようになったことでもありますし」

 石庵はそう言った。

 甃庵は、やや複雑な思いだった。確かに蘭洲は、以前から江戸行きを希望していた。懐徳堂の講師へ招聘した際も、江戸行きまでの期間限定という条件付きであった。蘭洲が抜ければ、日講は甃庵一人でほぼすべてを受け持つ形となるが、預人として懐徳堂の事務一切を仕切る甃庵には、荷が重いように感じられた。

 石庵は、甃庵の胸の内を察して、言った。

「蘭洲殿が江戸へ発てば、甃庵殿の負担が増えることになるのは間違いない。だが、私の後に学主を継ぐのは甃庵殿である。本来、学主とは、日講を行うのが仕事であるが、私のように日講を行わず、名ばかりの学主であってはならない。甃庵殿は今のうちに、次期学主として、懐徳堂の日講のほぼすべてを一手に受け持つことに慣れておくべきである」

「私が石庵先生の後、学主を継ぐのですか?」

「ほかに誰が継ぐのだ? まさか、私が亡き後、懐徳堂の看板を仕舞うのか? 官許を取得し、お上から『今後長きにわたって運営し、ゆめ退転することなきように』と申し付けられているのではないのか? 甃庵殿が学主を継ぐ以外、ほかに道はないであろう」

 石庵の後の学主を誰が継ぐのか、ということについて、これまで甃庵も考えなかったわけではない。その候補者の一人に、自分が含まれていることも自覚していた。

 だが、石庵から後継学主として名指しされたことで困惑した。預人という立場で、学主の代理で周旋に動く今の身分は気が楽だが、学主に収まればそうはいかない。

 石庵は、蘭洲の江戸行きを機に、まだお気楽に見える甃庵に自覚を促す意図を込めて後継学主の話を持ち出した。甃庵には才走った面があり、それはそれで甃庵の特質ではあるが、官許学問所の学主として立つ以上、それだけでは駄目である。家族の事情はあるにせよ、学主になったらここを終の棲家とし、ここに骨を埋める覚悟を持てと言いたかった。

「学主の私が不甲斐ないばかりに、蘭洲殿にはこの四年間、ずっと懐徳堂の講師を専任していただきました。懐徳堂がこうして日々運営できているのも、ひとえに蘭洲殿の功績と言って過言ではありません。その蘭洲殿が、かねてからの希望通り、江戸行きを申し出られたのであるから、快く送り出したいと考えております。甃庵殿、そうであろう?」

「先生の言われる通りです。私が日講を引き継ぎますので、蘭洲殿はどうか気兼ねなく江戸へお発ち下され」

 将来、学主を継ぐためにも、今からその覚悟をもって仕事に取り組む必要がある。甃庵は自分にそう言い聞かせた。

「私のわがままをお聞き届け下さり、感謝に堪えません」

 蘭洲は深々と頭を下げた。

「江戸に出たら、私の友人で、官許取得にも参画した三輪執斎殿を訪ねなさい」

 石庵は蘭洲にそう伝えた。また別途、執斎あてに手紙をしたため、持軒先生の子息、蘭洲殿が出府するので、何かと目をかけてほしいと依頼した。


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