(3-5)懐徳堂の壁書
官許取得後、懐徳堂の玄関の壁に壁書が掲げられた。
「 定
一 学問は、忠孝を尽くし、職業遂行の資とするために修めるものである。懐徳堂の講義は、かかる目的達成のために行われるものであるから、書物を持たない者が聴講することはいっこうに差し支えない。
また、もし急用が出来した場合は、中途退出も可能とする。
一 武家の聴講生は、上座に着席すること。
但し、講義開始後、途中から聴講する場合はこの限りではない。
一 初めて聴講する人は、事前に預人中井甃庵まで申し出ること。
但し、甃庵不在の場合は、支配人道明寺屋新助へ申し出ること。
以上
午十月 学問所行司」
不文律ながら、以前から懐徳堂はこういう規則で運営されてきたのだが、それを明文化したものである。学問の目的を、儒学における最重要命題とも言える忠孝を尽くすこととし、かつ暮らしを支える職業を全うするためであると規定した上で、武士に対する敬意と、自由聴講の制限を掲げている。
開塾当初は自由聴講を認めていたのだが、実際にそれを行うと、学習意欲のない者が冷やかしで講堂へ入ってきて、ろくに講義も聴かずに私語したり、あるいは肩肘をついて寝そべり、いびきをかく者まで出たため、これはまずいということになった。
そのため、自由聴講制を廃し、預人または支配人への事前申し出の規定を設けた。
開講日についても新たに決まりを設け、休講日を毎月の一日、八日、十五日、二十五日とし、それ以外の日に日講を行うことに定めた。
受講者からの束脩は、開塾当初からの規定通り、五節句ごとに銀一匁か二匁を支配人へ納めることとしたが、懐具合によっては、紙一折、筆一対等でも構わないとした。
また、講義の受講とは別に、個人として講師に師事し、教えを乞う取り組みも開始した。すなわち、石庵と蘭洲、甃庵がそれぞれ直弟子をとって個人的に教授し、束脩は別途徴収した。直弟子の出自は他郷からやってきた寄宿生が主だったが、商家の子弟や隠居、それに五同志の縁者などのうち、熱心に学びたい者も含まれていた。
享保十一年(一七二六)十月五日、懐徳堂講堂にて、官許取得のお披露目講義が行われた。「論孟首章講義」と題し、石庵が講席に座って、「論語」学而篇と、「孟子」梁恵王章句上を講じた。聴講者は総勢七十八名であった。
末席で聴講していた甃庵は、石庵のややくぐもった声を聞きながら、目頭が熱くなった。
「官許取得までの道のりは、決して平坦ではなかった」
都合六回ほど江戸へ出向き、公儀との交渉を重ねたことを述懐していた。
「忠孝を実践しつつ、懐徳堂を末永く運営存続させること」
甃庵は、自分の後半生の命題をこれに徹することであると見定めた。
この時期、大坂で医院を開いていた甃庵の兄、養元は、大坂を去って龍野で暮らしていた。養元に代わって、弟の常庵が赤穂から大坂へやってきて、養元の医院を継いだ。甃庵の母、そのは大坂に残り、常庵と同居していた。
年が明けてまもなく、龍野の養元がにわかに病を発し、死去したとの知らせがあった。
甃庵は、母、常庵とともに龍野へ行き、養元の菩提を弔った。
忠孝の実践について、甃庵はみずからの行動で示すことに加え、それに該当する事例を採集して、世間に知らしめることも必要であると考えていた。そういう活動の蓄積が、ひいては世の中の風紀を改めることにもつながるとの思いだった。
大坂に戻った甃庵は、「富貴村良農事情」という、仮名書きの文章を綴った。これは、紀州富貴村の農民、次郎左衛門父子の徳業を顕彰した書き物であった。
非常勤講師の並河誠所は、一年足らずで大坂を去り、三島大社からの招聘を受けて伊豆へ転出した。
石庵は、体調が快復の兆しを見せたこともあって、ときどき日講を受け持つようになった。石庵の講義は漫談調で、書物を持たずとも、話を聴いているだけで解るようにかみ砕いた内容だった。朴訥な語り口は相変わらずながら、聴講者からの評判は上々であった。
だが、石庵は再び体調を崩し、翌年三月には日講から完全に退いた。
享保十三年(一七二八)、三十六歳になった甃庵は婚礼を挙げた。妻は、龍野の植村氏の娘で、十七歳の早である。
甃庵の婚礼後、常庵が大坂の医院をたたんで龍野で開業することとなり、常庵と同居していた母も龍野へ移ることになった。
祖父、養仙が老齢をおして長男一家ともども大坂へ出てきてから二十二年が経過していた。中井家では、甃庵だけが大坂に残る形となった。
享保十四年(一七二九)、新緑の季節が巡ってきた。
甃庵が懐徳堂の庶務室で執務していると、そこへ蘭洲が入ってきた。
「実は、石庵先生も交えて、お話ししたいことがあります」
蘭洲は、甃庵にそう言った。表情が硬い。
「石庵先生も、ですか?」
何か、のっぴきならない出来事でも起きたのだろうか。甃庵はにわかに緊張した。




