(3-4)江戸行き六度
「これからお礼回りのために、江戸へ行ってまいります」
甃庵がそう言ったため、石庵は驚嘆した。これで六度目の江戸行きになる。往復で三十日もかかる行旅を苦とも思わず、事もなげに江戸へ行ってくるなどと言い放つ甃庵に恐ろしさすら感じた。
蘭洲も、官許取得の知らせを受けた。
そのように大仰な肩書きを付与された懐徳堂というものが、実体としては雇われ講師である蘭洲がほぼ一人で講義を受け持っている。そんな心細い体制でありながら、官許を称して良いものだろうか。
かつて持軒の塾を受け継いだ際、満足に門下生が集まらず、細々と講義を行っていた頃のことを思い出していた。そんな自分が主任講師を務めるこの塾が、それほどの品質を庶民に付与しているとは到底思えない。
「官許取得などよりも、講義を充実させることに精力を傾ける方が重要ではないのか?」
しかも、官許取得に向けて動いていると知らされたとは言え、主任講師である自分はつんぼ桟敷に置かれたまま、事が進められた。蘭洲にはそんな思いがくすぶっていた。
「私が大坂を離れることが多かったゆえ、蘭洲殿へは多大な迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます。これからは、私も可能な限り日講を受け持ちます。それに、講師として、新たに二名を招聘することになりました」
蘭洲の不満を察したかのように、甃庵がそう言った。
「一人は含翠堂の井上赤水殿、もう一人は、並河誠所殿です」
赤水のことは、妙知焼け後、含翠堂で世話になったこともあり、しかも石庵が春楼とともに赤水の屋敷に寄宿していたので、よく知っていた。一方、並河誠所については、面識はないものの、その弟の天民とともに、伊藤仁斎の高弟であることは知っていた。
誠所は仁斎に学んだ後、遠州掛川藩の藩儒となり、その後、武州川越藩の藩儒となった。五十歳前に川越藩を辞し、江戸で塾を主宰しながら、地理や歴史、古文献などの調査研究も行っている。三年前から、公儀の命を受けて畿内の古文献探索の仕事を続けている。
五十九歳の誠所は、現在、古文献調査のため大坂に滞在しているが、以前から面識のある石庵との話し合いで、調査の合間に懐徳堂で講義の一部を受け持つことになった。そのため、誠所が講師を務めるのは大坂滞在中だけであり、ごく短期間の見込みだという。
井上赤水も、常勤ではなく、ときどき平野郷から船場へ出て来た際に、講義の一部を受け持つ形となった。
学主の石庵は病気がち、甃庵は、塾の事務仕事や不定期の龍野行きがあるため講義に専念できない。新たに講師陣に加わる赤水も誠所も非常勤講師であり、結局、今後も専任講師は蘭洲一人だけということになる。
「これからも蘭洲殿にはご負担をおかけすることになりますが、石庵先生も私も蘭洲殿を頼りにしています。なにとぞお頼み申し上げます」
甃庵は深々と頭を下げた。
蘭洲がふと不満を感じた瞬間に、それを見透かしたかのように甃庵がそんなことを言う。蘭洲は、甃庵がなかなかの人たらしであることに苦笑した。
甃庵は江戸へ行き、三輪執斎や大島古心のほか、勘定方へ官許取得のお礼に回り、さらに有馬氏倫と加納久通にも謁して、厚く謝意を述べた。
帰坂すると、甃庵は石庵、五同志と相談し、新たに使用できるようになった尼崎屋所有地の普請に取り掛かった。講堂と寄宿舎を修復拡張し、新たな門と住居、自習室を増設することになった。この費用は、主に五同志が義金として拠出した。
官許取得を機に、甃庵は「世話人」から「預人」と呼ばれることになった。半ば公的な学問所となった懐徳堂は、公儀から指定された敷地の借地権と、諸役免除の特権が与えられたが、これらを責任をもって預かり、かつ公儀との交渉窓口を務める名義人である、という意味合いが込められていた。
また、庶務や雑務を担当する「支配人」は、道明寺屋の手代、新助が引き続き務めることになった。
建屋の増築工事が完了した。以後、道明寺屋所有地のもともとの塾舎を右塾と呼び、官許取得後に新たに使用できるようになった尼崎屋所有地の塾舎を左塾と呼ぶことになった。右塾には開塾以来、石庵父子が住んでいるが、左塾には甃庵が住むことになった。
この頃、石庵の右塾には、住人が一人増えた。
石庵が高麗橋三丁目で多松堂を主宰していたとき、住み込みで働いていた嘉吉である。
嘉吉は、妙知焼けで避難途中、人ごみに紛れて石庵、春楼とはぐれてしまった。やむなく河内国茨田郡守口村の実家へ向かい、そこでしばらくの間、家業である野菜の棒手振を手伝っていた。
その後、石庵が懐徳堂の学主になったとの噂を伝え聞き、再び奉公に上がる決心をして、船場尼崎町へ出てきた。
嘉吉は、石庵父子の身の回りの世話に加え、丸薬製造の仕事にも携わった。
十五歳になった春楼は、懐徳堂に住んで以来、丸薬製造に必要な原料の買い付け、原料の前処理、調合、成形、元卸への納品と、その実務を主任してきた。
この仕事を主に嘉吉が行うようになったため、春楼に余暇ができた。
春楼は、懐徳堂の書庫から漢籍を持ち出してきて、注釈書と首っ引きでそれらを次々に読みはじめた。分からない箇所があると石庵へ質問した。
平野郷の含翠堂へ避難していたときにもそんな片鱗が見られてはいたが、嘉吉が来て以来、春楼は再び熱心に勉強するようになった。
「根を詰め過ぎるな」
石庵は、病弱な春楼を心配し、注意を与えた。
あえて学問を強要しない。儒者になるほどには学ばず、将来は丸薬製造で身を処していけばいい。石庵はそう思いながらも、みずから進んで漢籍を読んでいる春楼の姿に、じわじわとうれしさがこみ上げてくるのを抑えられなかった。




