(3-3)官許の裁可下りる
甃庵は、三たび江戸へ向かった。このとき、道明寺屋と備前屋も同行した。二人は、甃庵の相談役としての同行であり、かつ江戸見物も兼ねての旅であった。
甃庵は江戸で執斎と古心に会い、さらに勘定方の担当者とも会って申請書の不備箇所を確認し、加筆修正した。
道明寺屋と備前屋は先に帰坂したが、甃庵はしばらく江戸に滞在し、担当者とのやりとりを重ねた。このとき甃庵は、吉宗の侍講である公儀の儒者、室鳩巣とも面識を得た。
江戸滞在を終えて、甃庵は大坂へ戻ったが、まもなく執斎から書状が届き、勘定方の上役から、まだ申請書に不備ありと指摘されたと書かれてあった。
甃庵は、大坂に腰を落ち着ける間もなく、また江戸へ発たざるを得なかった。
「これほど手続きに骨が折れ、何度も江戸へ出向かなければならない官許というものを、無理して取得する必要があるのだろうか?」
石庵は傍観するつもりでいたのだが、甃庵があまりにも頻繁に江戸への行き来を重ねている状況を見て、ついたまりかねて疑問を呈した。
「確かに手間はかかりますが、官許取得は、懐徳堂の今後の運営に資すること大であると確信しています。ここで諦めたら、せっかく釣った鯛を持ち帰らずに海へ放つも同然です。石庵先生はじめ、蘭洲殿やみなさんには、私が不在ゆえにご迷惑をおかけすることになりますが、この案件は何としてでもやり抜く所存です。どうか今しばらく、猶予を頂戴したくお願い申し上げます」
甃庵にそう言われて、石庵は黙った。自分の思いを吐露して、甃庵の活動の足を引っ張ることは慎まなければならないと、改めて自分自身を戒めた。
年が明け、享保十一年(一七二六)、甃庵四度目の江戸行きである。申請書の不備箇所に手を加えて公儀担当者へ再提出後、帰坂すると、おって執斎から手紙が届き、申請書がようやく通過し、勘定方から御側御用取次へ引き渡されたとのことであった。
安堵したものの、申請書の内容説明のために改めて出府せよと書かれてあった。
甃庵は五度目の江戸行きの途に就いた。疲れたなどと言ってはいられない。これでやっと官許取得の目処が立ったと、勇躍した気分であった。
江戸では、吉宗の御側御用取次である有馬氏倫と加納久通に謁見した。甃庵は、官許申請について二人へ説明し、熱く語った。
「奇特の願である」
甃庵はそう声をかけられた。これで官許取得の趣意は二人を通じて吉宗の耳に入ることは疑いがなかった。
ただ、形式上、大坂町奉行所から沙汰するため、申請書を大坂へ転送するゆえ、改めて大坂町奉行所へ申し出るようにと指示された。
大坂町奉行所は、東西二つに分かれていて、一ヶ月ごとの月番制であった。もともと大坂城京橋口付近の堀端に両奉行所が並んで設置されていたが、妙知焼けの際、強風に煽られて両奉行所ともに全焼し、町政に支障を来たすこと多大であった。
この教訓を生かして、火災後、京橋口付近には東町奉行所のみを再建し、西町奉行所は、東横堀の東側、本町橋付近に新設され、東西の奉行所建屋は離れて存在することになった。
帰坂した甃庵は、さっそく奉行所へ出向いた。このときの月番は西町奉行所であり、就任してから間もない西町奉行、松平日向守勘敬がみずから甃庵を引見した。
「官許申請の儀、江戸表からは格別に処置するようにとの沙汰を承っている」
甃庵は平伏した。
「しかるに、懐徳堂の学主は三宅石庵なる儒者だと聞いている。その石庵がこの場に出ず、なにゆえその方が罷り越したのか?」
勘敬にそう質問された。
「ご指摘の件、ごもっともの仰せながら、学主石庵は半ば隠居の身でございますゆえ、この場に参上すること能わず、代わって世話人たるそれがしが罷り越しました次第です」
「相分かった。申請書をもとに吟味し、追って沙汰するゆえ、しばし待て」
勘敬にそう言われ、甃庵は御前を退出した。
奉行所による石庵と甃庵、五同志の身辺調査が行われ、その結果も勘案された結果、六月七日に、奉行所から「願意聞き届け」の沙汰が下った。合わせて、
「学問所として長きにわたって運営し、ゆめ退転することなきように取り計らえ」
と申し添えられた。
官許裁可により、懐徳堂は「大坂学問所」を名乗ることを許され、また諸役免除も沙汰された。つまり、懐徳堂は、町年寄による町の管轄から外れ、人別も町とは別証文で管理することになった。各種申請、報告等も町を通さず、直接町奉行所へ提出することになり、かつ、懐徳堂内で帯刀身分の者を止宿させても構いなし、ということになった。
さらに、既存の懐徳堂の敷地である道明寺屋所有地の間口六間半、奥行二十間に加え、隣接する尼崎屋所有の間口五間、奥行二十間の土地も、当面は借地料支払いを条件に借り受けることが決まった。これにより、懐徳堂は敷地として間口十一間半、奥行二十間、坪数にして二百二十坪強を利用できることになった。
地主である道明寺屋と尼崎屋へは、いずれ適当な土地が代地として与えられ、その際には懐徳堂の敷地は永代拝領地として下げ渡されることも言い渡された。
甃庵は、何度も江戸行きを繰り返した苦労がようやく実ったことに歓喜した。
ついにやり抜いてしまった。甃庵から官許取得の報告を受けた石庵は、その粘り強さにあきれると同時に、兜を脱ぐ思いがした。江戸から大坂まで、だいたい片道十五日、往復で三十日程度かかるが、それを二年弱の間に五度も行き来するとは思いもしなかった。




