(3-1)三輪執斎からの手紙
蘭洲は、懐徳堂の講師を引き受けることにした。
何よりも、自分が必要とされたことが講師を引き受ける決め手となった。懐徳堂の講師にぜひ、などと請われた経験は、これまでの半生においてこれが初めてかもしれない。人から求められる快さというものに、蘭洲は大きく反応した。
含翠堂で世話になった土橋友直、井上赤水らに別れのあいさつをすると、快く送り出してくれた。
妙知焼けで焼け出され、母のたかを背負って平野郷まで逃れてきた際、手厚く世話を焼いてくれた井筒屋佐平の旅籠へもあいさつに出向いた。蘭洲は佐平へ、「論語」と「孟子」をみずから書写し、ていねいに綴じて製本したものを贈った。
蘭洲は一年以上滞在した平野郷を去り、三星屋が管理する船場丼池筋にある民家に住むことになった。
石庵と五同志、それに甃庵にあいさつを済ませると、さっそく懐徳堂での日講を開始した。月のうちの約半分の日講を受け持ち、朗々と四書五経を講じた。
「当面は懐徳堂講師を務め、いずれ環境が整い次第、石庵先生の支援も借りて江戸へ出る」
蘭洲は、今後の行動方針が明確になったことに満足した。
一方、この時期、江戸の三輪執斎から甃庵あてにかなり分厚い手紙が届いた。
六年前、石庵が弟の観瀾の死去を受けて江戸へ行った際、甃庵も同行したが、そのとき執斎と面識を得た。それ以来、甃庵はときどき執斎と手紙のやりとりをする間柄であり、懐徳堂創設のことも、甃庵は執斎へ詳しく伝えていた。
執斎からの手紙を開くと、「官許」という文字が目に飛び込んできた。
江戸在住の朱子学者、菅野兼山が、身分を問わずに聴講できる漢学塾を江戸市中に創設したいと目安箱へ投書したところ、それが八代将軍吉宗の目に留まった。吉宗はさっそく町奉行に検討させ、その結果、兼山へ本所深川に塾の用地と、支度金三十両を下賜することになった。それに加え、「官許」学問所と称することを許した。兼山は塾名を「会輔堂」と名付けて開講し、江戸市民へ自由に聴講させているという。
「京都、大坂にも、会輔堂と同様な官許学問所を設けたいが、誰か適当な儒者はおらぬか?」
吉宗は、紀州藩主時代からの側近である大島古心にそう意向を漏らした。古心は吉宗の意を受けて、京都出身の知友である執斎へ相談した。
執斎はすぐに懐徳堂を思い浮かべだ。懐徳堂は開塾したばかりであり、しかも商家の五同志が、妙知焼け後の萎えた世情を一掃して、多くの庶民に学問を植え付けたいとの思いから創設された漢学塾であることもあり、公的性格を帯びさせるのに適していると考えた。
だが、学主の石庵は、官許や公許などというものには興味はなく、それどころか、そういうものに対して嫌悪感を示す性格と思われる。
それに、弟の観瀾のこともあった。観瀾は、水戸家へ仕え、さらに公儀の儒官となったが、晩年は保身を図った形跡があり、石庵はそのことに憤りを感じてもいる。公的な立場というものが、往々にして執着を生み、人倫にもとる行為にも堕しかねないことを石庵は強く懸念しているふしがある。
それゆえ、官許のことを石庵に勧めたところで話に乗ってくるとは考えにくく、むしろ、もってのほかであると怒り出す公算が高い。
「ついては、官許学問所の案件を進めるあたり、石庵先生へは話を漏らさず、秘密裡に世話人である甃庵学兄に動いてもらえないだろうか?」
執斎からの手紙は、そう締めくくられていた。
甃庵は手紙から目を離し、天井をあおいだ。
官許を得ることが、懐徳堂にとって得策なのかどうか。官許の事例はまだ菅野兼山の会輔堂以外にはない様子であり、公儀にとっても新たな取り組みであって、事例の蓄積はないように見受けられる。官許を得た場合の利点と欠点とが判然としない。
それに、石庵には内緒で事を進めよと執斎は言うが、それは至難の業である。こそこそと画策していれば、すぐに勘付かれてしまうであろう。
だが、これはかしこくも将軍吉宗の文教政策の一環であり、畿内への官許学問所設置をもって、公儀の文治主義を明らかならしめるための施策である。
「懐徳堂が名乗りを上げ、官許を取得すれば、その名を世に知らしめる良い機会となる」
漢学塾の看板を掲げた以上、塾の存在を広く世間に知られるのは悪いことではない。
甃庵はそう考え、執斎が持ちかけてきたこの話を進めてみることにした。




