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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第2章 懐徳堂創設
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(2-7)蘭洲の出立


 蘭洲が平野郷へ来てからまる一年が経過した。郷の山桜が鮮やかに咲き誇り、暖春の到来を告げていた。

 母の一周忌を終えたが、今後の展望が定まらないまま、月日が流れていた。

 江戸へ出たいと思いはしたものの、いざそれを実行するとなると腰が重かった。

「わしは江戸に土地勘がなく、これといったつてもない」

 石庵が、知人を紹介するとは言ってくれたが、それだけを頼りにするのは無謀に思えた。

 大坂で持軒の塾を引き継いで運営したものの、あまり繁盛しなかった経験を踏まえれば、江戸で漢学塾の看板を掲げたとしても、それがうまくいく道理はない。

「わしには、人を呼び寄せる魅力というものが欠如している。そんなわしにできることと言えば、誰かが主宰する漢学塾の雇われ講師か、傭書ぐらいしか思いつかない」

 それならば、含翠堂で講師を務めつつ、兼業で傭書を引き受けている今の暮らしがまさにそれである。わざわざ江戸へ出てそれをやる必然性がない、という結論に帰着する。

 堂々巡りであった。近頃では、考えることにも疲れてきて、このまま平野郷に腰を落ち着けようかと思うようになっていた。実際、今の暮らしに大きな不満はない。

 そんな折、寄宿先の土橋友直の屋敷に甃庵が訪ねてきた。

 蘭洲は、甃庵とそれほど親しい間柄ではない。持軒と親しかった石庵の一番弟子ということで、これまで何度か顔を合わせる機会はあったものの、それ以上の関係ではなかった。

 何の用件か分からぬまま、蘭洲は甃庵を自室へ招じ入れた。

「蘭洲殿に、懐徳堂の講師を引き受けていただきたいのですが」

 あいさつもそこそこに、甃庵はいきなり用件を切り出した。

 ここへ来る前に、含翠堂の土橋友直と井上赤水に面会し、蘭洲を懐徳堂へ招聘したい旨を伝え、了解を取りつけてあると言う。

 すでに根回しまで済ませているとは。甃庵の周到ぶりに、蘭洲は苦笑した。まずは本人の意向を確認するのが先ではないのか。

「石庵先生はお年を召されていることもあって、円滑に講義を行うことができず、懐徳堂の日講は穴が開きがちです。そこで、蘭洲殿にぜひご助力願いたいと思い、こうして参上した次第です」

「なぜ私にお声掛けを?」

「並々ならぬ学識をお持ちであり、加えて人物は謹厳実直。懐徳堂の講師をお願いする御仁は、蘭洲殿のほかにいないと、石庵先生はじめ、同志全員の意見が一致しました」

 少々面映ゆいが、招聘を受けたこと自体、悪い気はしない。だが、あまり好きではない石庵のもとで講師を務めることを考えた場合、不安が頭をよぎった。

「ですが、石庵先生に代わって、甃庵殿が講義を受け持てばいいのではないでしょうか?」

「私には家庭の事情があって、しばしば母を連れて播州龍野へ行かなければなりません。そのため、私以外に常時教壇に立てる専任の講師がどうしても必要なのです」

 含翠堂における蘭洲は、講師の一人に過ぎない。一方、懐徳堂では、どうやらほとんどの講義を受け持つことになるらしい。儒学講師としてのやりがいを考えた場合、後者の方がはるかに勝る。蘭洲はそう思った。

「蘭洲殿は江戸行きをお考えであると石庵先生からお聞きしました」

「はい。ですが、まだ予定はありません。江戸につてがあるわけではないので、見通しが立っていない状況です」

「石庵先生は、蘭洲殿が江戸行きをお望みならば、便宜を図ってもらえるように江戸の知人あてに文をしたためるおつもりだそうです」

「石庵先生にそう言われています」

「ですから、蘭洲殿の江戸行きの準備が整うまでの間だけで構いません。どうか、懐徳堂の講師を引き受けていただけないでしょうか?」

 好きになれない石庵の下で講師を務めることが気がかりではあるが、そこまで譲歩するのであれば、悪い話ではない。

「まだ開講したばかりの懐徳堂を、ともに畿内随一の漢学塾に育て上げましょう」

 やや言葉が過ぎるのが気にはなるが、甃庵のそういう気概は嫌いではない。それに、甃庵ならば、自分と石庵との間を取り持つ緩衝材になってくれるであろう。

 即答は避けたが、蘭洲の気持ちはほぼ固まっていた。

 甃庵が帰った後、蘭洲の頭には飯山の春の景色が思い浮かんだ。もう雪解けの季節だろうか。そんなことを脈絡もなく思う自分が不思議に感じられた。


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