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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第2章 懐徳堂創設
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(2-6)青少年期の甃庵


 中井甃庵(なかいしゅうあん)、名は誠之(さねゆき)、字は叔貴(しゅくき)、通称忠蔵は、元禄六年(一六九三)、播磨国龍野で生まれた。父の玄端(げんたん)は龍野藩脇坂家五万三千石の藩医であり、甃庵はその四男だった。

 中井家が脇坂家へ仕官するようになったのは、玄端の父、つまり甃庵の祖父である養仙(ようせん)の代からである。養仙は大坂で医院を開業し、名医として評判になったが、それが当時大坂城加番として在坂していた脇坂中務少輔安政の耳に入り、禄二百五十石の藩医として召し抱えられた。はじめは信州飯田に住み、のちに脇坂家の転封に伴い、龍野へ移住した。

 安政が隠居し、息子の淡路守安照の代になると、養仙は安照と反りが合わず、しばしば直言して安照の勘気を蒙っていた。やがて養仙は、家督を長男の玄端に譲って隠居した。

 隠居してからも、中井家の主権者は養仙であった。養仙は、龍野での暮らしを窮屈に感じたため、宝永三年(一七〇六)、かつて住んでいた大坂へ転居し、再び医院を開業した。その際、玄端を藩医から隠退させ、その家族ともども大坂へ同行させた。龍野藩医の家督は、養仙の次男、つまり玄端の弟である玄意に継がせた。このとき養仙八十一歳、玄端六十二歳、甃庵十四歳であった。

 甃庵は、高齢になっても意気衰えることなく家族を差配し、八十一歳になってから大坂への転居を決め、実行に移す養仙の果断さを尊敬していた。養仙は、何か問題が生じたとしても決して気鬱になどならずに、自分で考えて躊躇なく決断を下す。もう歳だから、などと泣き言は決して言わない。甃庵は、自分もそんな大人になりたいと思った。

 大坂に住むことになった甃庵は、玄端に連れられて、弟の常庵とともに石庵へ入門した。龍野での幼少時代、すでに養仙と玄端から漢文の素読を施され、四書五経を一通り学んでいたが、石庵に入門したのちは、数多くの注釈書を渉猟し、その内容の理解を深めた。

 中井家が大坂で開業した医院は、玄端とその長男、つまり甃庵の長兄である養元が診ていた。玄端には五人の男子がいたが、養仙の指図で、その男子たちは次々と養子に出された。玄端の次男、伯元は、玄端から龍野藩医を継いだ叔父、玄意の養子となり、三男の権蔵は、龍野藩家老、柳生太右衛門の養子として出された。

 四男である甃庵は、宝永五年(一七〇八)、伊予国新谷一万石加藤家の家臣で、当時大坂蔵屋敷留守居役であった岸田源之進の養子となった。甃庵十六歳のときである。

 祖父も父も医師であるため、甃庵は、自分も医師を志すことになるものと考えていた。ところが、養仙から、

「我が家の医業はそなたの二人の兄が継ぐから、忠蔵(甃庵のこと)は、権蔵と同様に侍として身を立てよ」

と言われて送り出された。

 甃庵は、中井家の将来像についての養仙の構想を実に明快なものであると感じた。玄端の長男と次男は医師にするが、三男と四男は侍として奉公させることで、家系の分枝を増やし、家の安泰を図るというものであった。甃庵は納得して、新谷藩の中堅藩士として生涯を歩む覚悟を決めた。

 養父である岸田源之進には実子がなく、養子の甃庵が源之進の後を継ぐことが決まっていた。源之進が江戸詰めに異動になると、甃庵もそれに随行して江戸住まいとなった。

 江戸で暮らし始めてまもなく、石庵の弟、観瀾と面識を得た。甃庵は、師匠の弟である観瀾に何かと便宜を図ってもらい、そのことを深く恩に感じていた。後年、観瀾が没したとき、当時大坂にいた甃庵が石庵に同行して江戸へ行き、観瀾の墓前に手を合わせたのは、このときの縁によるものであった。

 江戸では儒学の師に就いて研鑽を重ねた。社交性のある甃庵は学問仲間もできて、江戸暮らしを楽しんだ。

 そんなある日、源之進が藩主加藤出雲守泰觚(はんしゅかとういずものかみやすかど)の逆鱗に触れて免職となり、藩士の座を追われてしまった。正徳元年(一七一一)、甃庵十九歳のときの出来事であった。

 浪人となった源之進は、江戸から地元の伊予へ退去し、甃庵もそれにしたがって伊予へ移り住んだ。新谷藩士として生涯を送るつもりでいた甃庵だったが、それが頓挫してしまい、今後の身の立て方が宙に浮いてしまった。

 この年、養仙が八十六歳でこの世を去った。知らせを受けた甃庵は大坂へ行き、上本町の誓願寺(せいがんじ)に葬られた養仙の墓前に花を供えた。家族の話によると、養仙は死の直前まで意識がはっきりしていて、家のことを何やかやと指図していたという。

 さらに不幸は続き、養父の源之進が気鬱のまま、まもなくこの世を去った。

 源之進は、土地家屋ほか、相当額の資産を保有していた。それらは、養子として岸田家に入った甃庵が継ぐべき性質のものであった。

 ところが、甃庵にとって養母にあたる源之進の妻の態度が豹変した。養子に入ってまだ三年、岸田家に対して何の貢献もしていない甃庵が家督を継ぎ、その遺産を(ほしいまま)にすることはまかりならぬと養母は言う。

 もとより、源之進の遺産を身勝手に浪費する気など、甃庵はみじんも抱いていなかったが、何よりも、源之進が健在の頃までは優しかった養母の、別人とすら思えるぐらいの変わり様に、甃庵は驚きを隠せなかった。養母は自身の実弟を家に住まわせ、甃庵を邪険に扱い始めた。それはあまりにも露骨であった。

 養母には、甃庵を家から追い出し、岸田家と、源之進の遺産とを実弟に継がせる意図があることは明白であった。甃庵は、養父亡き後、自分が岸田家にとって不要な存在になってしまったことを認識せざるを得なかった。

 ならば是非もない。養母とその実弟と係争してまで源之進の遺産相続を勝ち取る気など毛頭ない。甃庵は、さっさと見切りをつけるべきだと判断し、すぐさま岸田家を出て、大坂の家族のもとへ帰った。

 何か問題が生じ、自助努力だけではどうにも解決できなければ、早々に見切りをつけて転進し、別の道を切り開く。生前の養仙はつねにそうやって身を処し、天寿を全うした。甃庵は、亡き祖父のそんな生きざまを見習って、岸田家との縁をきっぱりと断ち切った。

「世の中には、遺産に目がくらんで豹変する人物が確かに存在する」

 この一件を通じて、甃庵はそんなことを学んだ。

 父の玄端と、長兄の養元が医院を開業している大坂の家に住むことになった甃庵は、再び石庵の門下生となり、弟の常庵とともに精力的に儒学を学んだ。

「儒者として身を立てる」

 甃庵は、そう決心した。養仙は、玄端の息子四人のうち、長男と次男には医業を継がせ、三男と、四男である甃庵には侍になれと指示したが、甃庵は侍になり損ねてしまった。武家の養子はもう懲り懲りであり、さりとて今さら医師になる気になどなれない。

 養仙は、玄端の五男である常庵の身の振り方だけは指示しないまま世を去ったが、常庵は甃庵同様、儒者を志して精力的に漢籍を学んだ。二人は早朝から深夜まで机に向かい、夜になると寝落ち防止のために、双方の首に縄を巻き付けて戒め合った。しかも、その縄は就寝中も首に巻いたままにし、お互いに惰眠を許さず、早起きを励行した。

 甃庵は主に朱子学を学んだが、師の石庵の影響を受けて陽明学も学び、その基本となる考え方に惹かれるものを感じた。「()良知(りょうち)」、すなわち、人には良心に結び付いた知(良知)が先天的に備わっており、人はその良知を実現するために行動すべき、という考え方。

 それに、「知行合一(ちこうごういつ)」、すなわち、知と行動とは表裏一体のものであり、行動を伴わない知は本当の意味での知ではない、という考え方。

 知は行動にあり、とは、まさに養仙の生涯そのものであった。甃庵は、知行合一という言葉を知って、わが意を得たりと共感を覚えた。

 大坂へ戻ってから二年後の正徳三年(一七一三)、甃庵は両親、常庵ともども龍野へ発った。これは龍野藩医である叔父の玄意から、藩主脇坂安照公の病状について玄端に相談したい事柄があり、ついては龍野まで足労願いたいとの要請を受けての出立であった。

 藩侯の生命に関わる事案であり、次第によっては憂慮すべき事態にもなりかねないことから、大坂には長兄の養元一家のみを残し、玄端ほか家族うち揃っての龍野行きとなった。

 幸い、藩侯の病状は持ち直したが、玄端ら四人はしばらく龍野に滞在することとなった。また病状が悪化しないとも限らず、その際、すぐに対応できるよう備えるためであった。

 龍野での滞在中、甃庵は龍野藩儒の藤江熊陽(ふじえゆうよう)のもとへ通い、儒学の研鑽を重ねた。一方、常庵は医術を志す決意を固め、古方派(こほうは)の医師である後藤艮山(ごとうこんざん)のもとで修行するために京都へ発った。

 儒者を目指して、ともに学問に精励していた甃庵は、常庵の転身をさびしく感じた。

「儒学で暮らしを立てることは困難であり、家業である医術を身につけた方がより将来の展望を描きやすい」

 常庵はそう言った。現実的な考え方であり、甃庵はそれを否定することができなかった。

 龍野での暮らしは短期間では済まず、結局三年続いた。常庵が医術修行を終え、京都から龍野へ戻ってくると、玄端は常庵とともに、龍野の西方約六里にある赤穂の地で開業することになった。これは赤穂に住む知人の招請によるものであった。

 甃庵はこれを機に大坂へ戻ることにしたが、母が赤穂への転居を望まず、大坂で暮らしたいと言ったため、母を伴って帰坂した。

 大坂で養元の医院に住むことになった甃庵は、再び石庵に師事した。一時は安土町の石庵宅に寓居し、家事を受け持ちながら学んだ時期もあった。

 享保五年(一七二〇)、玄端が赤穂で没した。享年七十六歳。

 玄端の葬儀は赤穂で執り行われた。甃庵は赤穂へ赴いて葬儀に参列したが、葬儀が終わってからもしばらく大坂へは戻らず、赤穂と龍野に滞在して喪に服した。

 甃庵はこのときの葬儀の経験を踏まえて、「喪祭私説(そうさいしせつ)」という書物をまとめた。これは、儒教の形式に則った喪祭礼を本邦流に改変し、かつ甃庵の私見も交えて記述したものであり、この書物が甃庵にとって初めてのまとまった著作物であった。

 享保七年(一七二二)、喪を解いた甃庵は、二年ぶりに大坂へ帰った。大坂では、石庵の門下生仲間である備前屋が所有する伏見堀両国町の家を借り、そこへ一人で住んだ。このとき甃庵は三十歳であった。

 自身で漢学塾を開くことを考えながらも決心がつかす、甃庵は石庵の塾で代講したり、養元の医院を手伝ったりなどしながら、日銭を稼いで暮らした。

 実際には、それだけでは自活できず、家主である備前屋の厚意に甘えて、家賃を大幅に安くしてもらったり、道明寺屋から生活費を援助してもらったりなどして、何とか糊口を凌いだ。

 享保九年(一七二四)三月、妙知焼けの大火の際は、幸いにも甃庵の居宅と、養元の医院は類焼を免れた。

 火事の後、三星屋、道明寺屋から甃庵に声掛かりがあった。

「道明寺屋の隠宅跡地で漢学塾を開き、火難に遭った石庵先生を学主に招聘するつもりです。甃庵殿も一緒に塾の運営に参画しませんか?」

 石庵はすでに還暦を過ぎ、健康面に不安があることもあって、儒学の学識を備えた補佐役が必要だが、石庵の一番弟子とも言える甃庵こそ適任であると言う。

「私は時折、母を連れて龍野へ行かなければならない事情を抱えています」

 甃庵ははじめ、そう言って誘いを断った。

 それでもいい、と三星屋らは言った。まず孝行を優先し、塾の運営の仕事はその合間にこなすということで差し支えない、と大幅に譲歩した条件が提示された。

 甃庵は、それならばと引き受けた。師の石庵に親しく仕える仕事である。塾を立ち上げ、軌道に乗せる役割に徹しようと気持ちを引き締めた。


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