(2-4)命名
享保九年(一七二四)十一月、路面や草木に朝霜が降りた日の朝、石庵と春楼は、妙知焼け後、約八ヶ月間にわたって寄宿させてもらっていた平野郷の井上赤水宅を出発した。
向かう先は、船場の尼崎町一丁目である。
石庵は、新しく創設される漢学塾の学主を引き受けることを決め、この日から、二人は塾舎の二階にある住居へ引っ越すことになっていた。
世話になった赤水とその家族、それに土橋友直ほか含翠堂の関係者に別れを告げるのは、石庵にとってつらいことだった。焼け出されて、ほとんど無一文に近い父子二人を温かく迎え入れてくれた彼らの懐の大きさを思うと、石庵の目頭は熱くなった。
「永遠のお別れというわけではありません。平野郷と尼崎町とはほんの二里しか離れておりません。またいつでも、お気軽に平野郷へお出かけ下され」
赤水にそう言われると、石庵の涙腺はさらに脆くなった。
「みなさま方のご厚情、ご厚恩、この石庵、生涯忘れませぬ」
言葉に詰まりながら、そう言うのが精いっぱいであった。
石庵は先日、蘭洲とも別れのあいさつを交わした。
「新たに漢学塾を始められるそうですね」
「はい、私の門下生だった人たちが鳩首凝議して、焼け跡に塾舎を建てましてな。こんなときだからこそ、心を落ち着けて古賢の言葉を学ぶことに意義があると。その心意気に打たれて、学主を引き受けることになりました」
「本当にみなさんの心根はご立派です。これも石庵先生の薫陶のたまものですね」
「この年寄りにどれだけのことができるか分かりませんが、力の限り、努めさせていただく所存です。蘭洲殿もどうかお達者で。前にも申し上げました通り、もし江戸へお出になるようでしたら、ぜひ私めにご一報下さい。江戸の知人あてに文をしたためますので」
「かたじけなく存じます」
どうも好きになれない石庵だが、門下生たちから学主として迎え入れられるとは、石庵はよほど人徳があり、慕われているのであろう。蘭洲は、改めて石庵の人となりについて見直してみた。朱子学、陽明学の深い学識を備えながら、人物はどこか飄々としていて、親しみやすい味がある。
それでいて、おのれの信念に対して剛直な面があり、師匠の浅見絅斎とは、主義主張の違いから訣別した。また以前、石庵の塾の資金提供者の中に悪徳商人がいることが分かると、石庵は即座にそこを退去し、自分で家を借りて移り住んだという。そんなめりはりのきいた人柄が、人々から慕われる要素なのかもしれない。蘭洲はそう思った。
大坂の街の復興は、石庵が二ヶ月前に見たときよりもさらに進んでいた。新築の建物が増え、反対に瓦礫は減っていて、火災の片鱗が残る箇所はだいぶ少なくなっていた。
「みんな気丈だのう」
石庵は、息を吹き返しつつある街の風景を眺めながら、そうつぶやいた。
他人事ではない。同じく被災者である石庵自身、自分も気丈でなくてはならない、とみずからに言い聞かせていた。
尼崎町の塾舎に到着すると、五同志と甃庵に迎えられた。
「これからお世話になります。この通りの老骨ですので、どうかお手柔らかに」
「これはまたご謙遜を。肌つやのいい石庵先生のこと。これから大いに働いてもらいますゆえ、どうかお覚悟下され」
「いやはや、何とも手厳しい」
一同は笑いに包まれた。
塾の運営方法については、約二ヶ月前に石庵と五同志、それに甃庵の七人で協議を行い、大筋で合意していた。
まず、講義内容は、儒学の基本経書である四書五経とし、特に四書を主体とすること。
趣味として嗜む人が多い漢詩の講義、ないしは輪読会のようなものを開催したらどうかという意見が出たが、まずは基本となる講義様式を整え、定着させることこそが喫緊の課題であり、基本経書以外の内容を扱うことについては向後の検討事項とすべき、ということに決着した。
日講については、なるべく多くという意見もあったが、高齢の石庵の負担を考慮し、無理のない程度に設定することになった。その結果、毎月の三、四、六、七、九がつく日を講義日とし、一、二、五、八、〇がつく日は休講日とした。つまり、講義が行われるのは月の約半分ということになる。
受講者からは、五節句ごとに銀一匁ないしは二匁の束脩を徴収することに決まった。無償にしたらどうかという意見もあったが、無償にすると、さして学習意欲もない者までもが物珍しがって出入りする可能性があり、そうなれば講堂が人であふれたり、講義を聞かずに私語したりして、場の規律を乱す懸念があるとの意見が勝ちを収めた。
ほかに、月一回ないし二回、同志会を設けることにした。これは日講とは別に、五同志のみが石庵から講義を受ける場として設定された。同志会で講じる内容は四書五経ではなく、石庵が信奉している陽明学者の著書、例えば中江藤樹の「翁問答」、熊沢蕃山の「集議和書」などを輪読することにした。
講義は学主の石庵が行うが、塾の事務一切を主管する「世話人」に中井甃庵が就任し、庶務や雑務を担当する「支配人」には、道明寺屋の手代である新助が就くことになった。入門希望者は、窓口である甃庵か新助へ申し出てもらうことにした。
「ところで石庵先生、塾名はお考えになられましたか?」
甃庵が訊いた。
「もちろん、考えてきたとも」
石庵が高麗橋三丁目で開いていた多松堂の名称をそのまま受け継いだらどうかという意見もあったが、運営主体者が変わったこと、それに大火災の後でもあり、心機一転、新しい名称を掲げて出発したいとの石庵の希望もあって、新たに名称を定めることになった。
石庵は、箱から半紙を取り出して、甃庵と五同志へ示した。そこには堂々とした毛筆で、
「懐徳堂」
と書かれてあった。
甃庵は、「懐徳」の文字を見て、その出典が、「論語」里仁篇の、「君子は徳を懐い、小人は土を懐う」であることを覚った。五同志の面々も、なるほど、とうなずいていた。
「これは『論語』からの引用でしょうか?」
「その通りだ」
石庵は一呼吸おいてから、続けた。
「人はこの世で生きていく中で、目先の利益にばかり目が行きがちであり、ややもすると平然と徳業から外れた行動をとることがあります。だが、やはりそれは人としてのあるべき姿ではありません。いかなる世の中であろうとも、つねに徳に根差した行動をとることが人の人たるゆえんであり、一生涯にわたって、そういう人物になるために自分自身を修練していくこと。それこそが儒学を学ぶ目的であって、この新塾が果たすべき役割であると私は固く信じております。その思いを込めて、『懐徳堂』と命名しました」
「これはちと、我々商人には耳が痛い」
備前屋がそう言った。
「我らはどうしても、目先の利益にばかり目が行きがちですからな」
舟橋屋がそう続けた。
「いやいや、みなさんは決して目先の利益ばかりを追う方々ではありません。みなさんは、被災した人たちに学ぶ機会を提供したいという心意気でもってこの塾の創設に参画、出資されています。これはまさに『懐徳』の精神を具現しているものと言うべきです」
「冗談ですよ、先生」
三星屋がそう言うと、一同が笑いに包まれた。
「懐徳堂、いい名前じゃありませんか。気に入りました」
一同からの賛同を得て、塾名は「懐徳堂」に決まった。
石庵はさっそく、横書きで「懐徳堂」と大書した書幅をしたためた。雄渾質朴な石庵の書は、唐の顔真卿のそれに似ていると巷で言われていた。この書を額縁に入れ、塾の講堂入口へ掲げた。




