(2-2)船場の五同志
新しい漢学塾の創設に出資し、石庵へ学主就任を持ち掛けた五人の商人は、石庵の門下生の中でも大店で通っていて、しかも学問熱心な者たちばかりである。
安土町で貸家業を営む三星屋武右衛門、本名中村睦峰は、商売の傍ら、読書にいそしみ、若年時から山崎闇斎が唱道した垂加神道を学んでいた。石庵を讃岐から大坂へ招聘し、尼崎町二丁目の家屋兼塾舎を提供したのは三星屋であり、大坂における石庵の最初期の門下生の一人でもある。
元々の通称は長右衛門であったが、みずからの惰弱を戒めるために、わざわざ武右衛門と改名した経緯がある。
以前、三星屋が賃貸ししている家に酔狂な侍が抜刀したまま侵入し、店子を悩ませたことがあった。知らせを受けた三星屋は、割木一本を手にしてその家へ乗り込み、やすやすと侍をひっ捕らえた。三星屋に武芸の心得があるわけではなかったが、その心胆の勁さをもって侍を怯ませたのだろうと近所の評判になった。
そんな武勇伝をもつ三星屋だが、人柄は温厚、かつ長者の風格があり、調整能力にも長けている。五同志の中では最年長ということもあり、まとめ役であった。
尼崎町で漬物と醤油製造業を営む道明寺屋吉左衛門、本名富永徳通は、はじめ五井持軒に学び、のちに石庵に入門した。学問を好み、儒学を学ぶ一方、上代仮名に造詣が深く、弟子をとって教えるほどの腕前の持ち主である。今般の漢学塾創設にあたっては、妙知焼けで焼失した自身の隠宅跡地を塾の敷地として提供し、塾舎建設を主導するなど、私欲が寡く、供与心に富んだ人物である。
北堀江で毛綿問屋を営む舟橋屋四郎右衛門、本名長崎克之は、道明寺屋と同様、はじめは持軒に学び、のちに石庵に師事した。
青年時代に叔父との確執で悩みを抱えていたとき、石庵から助言を受けた。
「学問とは、心を治めて苦を免れ、手をこまねいていれば滞る事柄を滞らぬようにするために行うものである。叔父との関係に悩み、その修復を望むのであれば、根気強く毎日でも叔父のもとへ赴いて語るべし。成果が表れないのは、そなたの思い入れが薄く、胸襟を開いて叔父に接していないがゆえである。もしそなたが誠を尽くして語りかけても叔父が翻意しないのであれば、それは叔父が妄人なるがゆえであり、それならば諦めるしかない。ただ、そこまで突き詰めて行動してから結論を出しなさい」
舟橋屋は石庵に言われた通り、嫌がられても毎日叔父のもとへ通った。やがて叔父の鉄腸は溶けて会話を交わすようになり、爾後、何事もなかったかのように叔父甥の関係が続いていた。
この一件以来、舟橋屋は石庵を尊信することすこぶる厚くなった。
両国町で材木問屋を営む備前屋吉兵衛、本名吉田盈枝は、石庵が高麗橋三丁目で多松堂を開いていたときに入門し、五同志の中では比較的新しい門下生である。儒学のほかに、国学も熱心に学んでいて、連歌も嗜んだ。また、持ち家の一つを甃庵に賃貸ししていた。
今橋で銀掛屋と蔵元を営む鴻池又四郎、本名山中宗古は、備前屋と同じ頃に石庵の多松堂へ入門した。又四郎は堺の出身で、本邦屈指の両替商である鴻池家の当主、三代目善右衛門の娘婿となって、その分家を継いだ。豪商鴻池の一門として、蔵元、大名貸しを業とする又四郎は、五同志の中でもっとも裕福であったが、商売堅実で寡黙、余暇には漢籍をひもとく学徒でもあった。
およそ大店の商人は、膨大な身代をもつがゆえに、遊蕩に耽って身を持ち崩しがちである。創業の初代が堅実な商売をして安定軌道に載せたのち、往々にして後代の当主がそれを食い潰す傾向がみられる。
大坂で米市を創始した淀屋の初代当主、常安は、土佐堀川の南岸に面する自身の屋敷前から中之島側へ自腹を切って架橋し、これを淀屋橋と名づけた。淀屋は淀屋橋の南詰で米市を主宰したほか、やがて大名貸しにまで手を広げ、一時は上方のみならず、江戸府内にも比肩すべき競合者がいないほどの豪商となった。
だが、米市が堂島へ移転すると淀屋の勢いは衰え、ついには宝永二年(一七〇五)、淀屋は公儀から闕所を言い渡されて雲散霧消するに至った。五代目当主廣當の遊興が度を越しており、それを見かねた公儀が大鉄槌を下したと言われている。公儀が淀屋から没収した財産は、金品だけでも二百万両を超えていたという。
当時、尼崎町二丁目で塾を開いていた石庵は、この出来事をよく憶えていた。盤石であるかに見えた淀屋の栄耀栄華のはかなさを切なく感じたと同時に、闕所に処されるだけの事由が淀屋側にあったわけであり、大店の驕りが命脈を縮めたのであろうと思った。淀屋という商家はこの世から消え、土佐堀川に架かる淀屋橋だけがその名残を今に留めていた。
「富裕に驕らず、世の中へ尽くす気持ちを失わないことが、商家永続の要諦かもしれない」
石庵は、五同志が漢学塾創設のために多額の出資を行い、目先の利潤追求とは一線を画す行動に出たことに改めて感心した。
自室へ戻ると、春楼が「孟子」の注釈書を読んでいた。
身体に障ってはいけないからと、石庵は、病弱だった幼少期の春楼へ無理に学問をさせなかった。だが、平野郷へ移ってきてから、春楼はみずから進んで経書を読むようになった。含翠堂の書庫にある漢籍を借りてきて、注釈書と首っ引きで読み砕こうとしている。分からない点があると、石庵へ質問したりもした。
石庵は、そんな春楼を微笑ましく眺める一方、儒者になるほど精励しなくていい、儒者の息子としての体面を保てるだけの学識を身につけさえすれば、それで十分だと思った。春楼が根を詰め過ぎているようなら注意せねばと、石庵は自分に言い聞かせた。




