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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第1章 妙知焼け
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(1-11)今後のこと


 平野郷の土橋友直宅に寄宿しながら、蘭洲は含翠堂で儒学の講義五齣(こうぎごこま)を受け持った。

 妙知焼けで焼け出され、母を失っただけではなく、家財一切、蔵書や、著述の草稿などもすべて失ってしまった。

 この火事で被害を蒙ったのはひとり自分だけではない。大坂に住む人々の多くが一軒の老婆が起こした火の不始末によって家を焼かれ、大切なものを焼かれ、甚だしきは生命までも奪われた。

 蘭洲は、すべてを失ってむしろ清々した、という気持ちもあった。

「一人なら、どうにでもなる」

 この先どうするかについての思案はまだ固まっていないが、これからは身一つ、しばらくは含翠堂で講義を受け持ちつつ、ゆっくり考えればいい。

 同じく平野郷に逃れて、含翠堂で講義を受け持っている石庵とは、持軒の葬儀以来、三年ぶりに顔を合わせた。

「こたびの火事ではお互い、ひどい目に遭いましたが、蘭洲殿は母御を亡くされたとのこと。心よりお悔やみ申し上げます」

「ご丁寧にありがとうございます。今頃母は、黄泉(よみ)の国で父と邂逅して、今生と同じように仲良く暮らしていることと思います」

「おお、そうでした。持軒先生と母御とは、本当に仲の良いご夫婦でしたな」

 そんな会話を交わしつつ、蘭洲の脳裏に、かつて石庵が持軒の門下生を奪ったのだ、という想念が繰り返しかすめた。

 奪った、というのは事実とは異なっていて、恐らく、老齢のため講義がままならなくなった持軒が、門下生を石庵へ託した、というのが実態なのであろう。蘭洲の理性はそう理解しているのだが、感情面では、石庵が奪った、という激しい文言が頭に刷り込まれていて、それが時折、棘が刺さったかのようにぶり返され、蘭洲を不快にさせた。

 石庵は、蘭洲に好印象を持たれていないことを以前からうすうす察していた。言葉こそ慇懃だが、会うたびごとに蘭洲から厳しい眼差しを向けられ、敵視されていることは疑いようもない。だが、それがなぜなのか、石庵にはこれといった理由が思い当たらなかった。

「石庵先生は、これからどうなさるおつもりですか?」

「まだ思案中ですが、私は平野郷がとても気に入ったので、このまま平野郷に腰を落ち着けようかと考えているところです。今は赤水殿の屋敷で居候暮らしですが、近くに家を借りて、含翠堂で講義を受け持ちながら、家業の丸薬製造も再開したいと思っております」

 丸薬製造と聞いて、蘭洲ははっとした。石庵が何年か前から、胃の病に効くという丸薬をつくって、讃岐あたりで売っているという噂を耳にしたことがある。

 どういう事情があるにせよ、儒者がそのような生業に手を染めていいものなのだろうか。市井の儒者なら、学塾で門下生に教授するか、あるいは著述したり、傭書を引き受けたりして生計を立てるべきではないのか。

 持軒は貧窮のあまり、末子の蘭洲を親類に預けた。蘭洲はそのことを恨みがましく思ってはいるものの、持軒が生涯、副業に手を染めることをせず、儒者としての矜持を保ち続けたことは評価に値すると思っていた。

 それに比べて、石庵はどうか。平然と副業に手を染め、儒者としての矜持を保っているとは到底思えない。蘭洲の頭の中には、腐儒、俗儒という言葉が浮かんでいた。

 石庵は、蘭洲の表情に軽侮の色が出たのを認めたが、それほど気にも留めなかった。石庵は石庵なりの事情、すなわち、病弱な春楼が将来、生活に困らないようにとの思いから丸薬製造を始めたのであって、そこには何ら後ろめたい気持ちはなかった。もとより、どうしても理解してもらえない人が一定数存在するのはやむを得ないことと諦めていた。

「そういう蘭洲殿は、今後どうなさるおつもりですかな?」

 石庵から質問され、蘭洲は返答に窮した。今後のことについて、まだきちんと考えが定まっていなかった。

「江戸表へ出て、漢学塾を開くか、あるいは仕官の口を探すかのいずれかの道をとりたいと考えております」

 自分の口から自然と衝いて出た言葉に、蘭洲は驚いた。江戸へ出る、などということは、これまで意識して考えたことがなかったからである。

「ほう、江戸ですか? 江戸に、どなたかお知り合いでもいらっしゃいますかな?」

「いえ、特に知り合いはおりません」

「それなのに、なぜ江戸へ?」

 蘭洲は答えようがなく、言葉に詰まった。

「まあ、理不尽にも焼け出されたという恨みが残る大坂に留まるよりは、ここを出て他所へ移る方がむしろ自然かもしれませんね。殊に、まだお若い蘭洲殿ならばなおのこと」

 石庵にそう言われて、あるいはそうかもしれない、と蘭洲は思った。顕在意識で考えたことはなかったにせよ、潜在意識では、忌むべき大坂を離れ、江戸で身を立てようと自分の内面から促すものがあったとしても不思議はない。

「江戸へお出になる折には、ぜひ私にお知らせあれ。江戸にいる私の知り合いあてに文をしたためて、蘭洲殿のために便宜を図ってもらえるようにお願い申し上げますゆえ」

「かたじけなく存じます。その折にはぜひ、石庵先生のご厚意に甘えさせていただきます」

 蘭洲は、石庵の申し出を素直に受け止めた。つてもなしに、身一つで入府するよりは、しかるべき人を紹介してもらい、その人に導いてもらった方が江戸での生活の基盤を築きやすいのは明らかである。あまり好きにはなれない石庵であっても、もし助力が得られるのなら、それに甘えた方がいい。

 だが、そもそも江戸行きなど、無意識のうちに口走った自分自身が驚いているぐらいであり、具体的な計画や見通しが立っているわけではない。自分の中に澱んでいる閉塞感を打破する一つの選択肢として、確かに江戸行きは魅力的ではあるものの、雲をつかむような話であり、現実感は乏しかった。

 窓外に目をやると、含翠堂の庭に植わっている桜の花びらがほぼ散り終わっていた。蘭洲はふと、かつて暮らしていた信州飯山では、ちょうど今頃が桜の満開時期だろうと思った。春の訪れが何にも増して待ち遠しかった飯山での日々が懐かしく感じられた。


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