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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第1章 妙知焼け
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(1-10)青少年期の蘭洲


 五井蘭洲、名は純禎(じゅんてい)、字は子祥(ししょう)、通称藤九郎は、元禄十年(一六九七)、大坂北鍋屋町で生まれた。父の持軒には三男一女があって、蘭洲は末子の三男であり、持軒五十七歳のときの子である。

 持軒は儒者であり、大坂で漢学塾を主宰した最初期の人物であった。

 持軒の講義内容は、儒学の四書、すなわち「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」を繰り返し講じるものであった。

「四書にさえ通じれば、宇宙の理を知ったと言っても過言ではない。ゆえに、学者はともかく、一般人は四書をきちんと身に付けさえすれば、他書をひもとく必要はない」

 持軒、通称加助はそう言い切った。世間では、四書の有用性ばかりを強調する持軒のことを「四書屋加助」とあだ名していた。

 門下生へは四書の講義のみに終始していたものの、持軒自身は四書以外の経書も幅広く渉猟しており、しかも和学にも通じていて、「日本書紀」の注釈書などを著している。

 蘭洲は四歳になると、持軒から四書の素読を受けるようになり、将来、儒者として身を立てるための修行を開始した。

 持軒が還暦を迎えた年、三宅石庵が讃岐から来坂し、尼崎町二丁目に漢学塾を開いた。年齢は持軒の方が石庵よりも二十四歳年長だが、二人はお互い、近所に居を構える儒者同士ということで交流が始まった。やがて肝胆相照らす仲となり、持軒は石庵を「君子」と呼び、石庵は持軒を「善人」と呼んで互いに敬し合った。

 持軒は酒と囲碁とを好んだが、暮らしぶりは粗衣粗食にして寡欲、蓄財を事とせず、必要があれば知人縁者へ惜しげもなく金品を援助贈呈した。また、書状を起草する際には反故紙を用いるなど、辺幅(へんぷく)を飾らず、生涯にわたって清貧を貫いた。

 ただ、その寡欲は行き過ぎていた。ある知人に、必ず返済するからと懇願され、家産の大部分にも相当する大金を気前よく貸し付けたところ、すべて持ち逃げされてしまった。

 このことで家計は破綻寸前となった。そこで口減らしのため、七歳になった末子の蘭洲を、親類で、摂津尼崎藩士である富島利眞(とみしまりしん)のもとへ預けることにした。

「おぬしを養子に出すわけではない。あくまでも一時預けであり、我が家の困窮が解消したらすぐにでも呼び戻す。それまで辛抱してくれ」

 持軒は蘭洲にそう言い含めて送り出した。

 蘭洲は、尼崎の富島家で四書五経をみっちりと自習した。ほかにすることがなかったから、という側面も多分にあったものの、結果的にこの時期、儒学の基本をしっかりと身につけることができた。

 蘭洲は、自分が宙ぶらりんな立場にいることを自覚していた。豊島家へ養子に入ったわけではないが、三年が経ち、五年が過ぎても、持軒からは何の音沙汰もなかった。

 蘭洲は諦める以外、ほかに方法がなかった。自分には父も母もなく、養父、養母もない。ただ富島家の世話になっているだけの厄介者である。利眞とその家族には、無償で寝食を提供してもらっていることに深く感謝しなければならない。

 蘭洲は自分にそう言い聞かせながら、ひたすら経書を自習する少年時代を過ごした。

 正徳元年(一七一一)、蘭洲十五歳のとき、尼崎藩青山家の信州飯山への転封が決まり、富島家も飯山へ転居することになった。

「これを機に、大坂へ戻れるのではないか」

 蘭洲はそう期待したが、持軒からは、富島家と行動を共にせよとの手紙が来たため、結局飯山へ移った。

 この期に及んでもまだ自分は宙ぶらりんな立場に置かれるのかと、蘭洲は憤った。いっそのこと、富島家の養子になれ、とでも言ってもらった方がどれだけ気楽であるか。

 飯山は、周囲を山で取り囲まれた盆地である。冬の寒さと豪雪には辟易したが、冬が厳しい分、春の訪れがとても待ち遠しく感じられた。雪解けとともに草木がいっせいに芽吹き、菜の花が咲く風景を眺めるのは、蘭洲にとって大きな喜びであった。

 飯山での蘭洲は、儒学のみならず、和学や仏教にも勉強の幅を広げた。また、その傍ら、傭書(ようしょ)、すなわち筆耕の仕事を引き受けるようにもなった。

 飯山で利眞に元服式を執り行ってもらい、成人となった蘭洲は、ただ富島家のもとで寄食しているわけにはいかなくなった。利眞からそうせよと言われたわけではなかったが、蘭洲は自分の意志で本の筆写の仕事に取り組み、それで得た金銭を利眞へ差し出した。

 蘭洲は、この仕事を通じて、ようやく自尊心が芽生えてきた。これまでは、無駄飯食いの厄介者と自分自身を規定し、富島家に対して肩身が狭い思いを抱きながら暮らしてきたのだが、自分の食い扶持を自分の働きによって得ているという実感が、蘭洲の精神に深く沈積していた(おり)を排出することに寄与する形となった。

 飯山で暮らすこと二年、十七歳になった蘭洲は、みずから利眞に願い出て、大坂へ帰ることにした。大坂を離れてから、すでに十年の歳月が流れていた。

 身分が定まらないまま、いつまでも富島家の世話になり続けることが自分の将来にとって得策とは思えないこと、それに、儒学、特に朱子学を十分に学び得た今、持軒に代わって家塾で門下生へ講義する自信がついたこと、この二点が蘭洲の意思決定の理由であった。

「長年、他家へ預けたままにして、おまえには寂しい思いをさせてしまった。申し訳ない」

 帰坂した蘭洲に対し、持軒はそう言って涙を流した。

 持軒は七十四歳になっていた。蘭洲の長兄は夭折し、次兄は京都の鷹司家(たかつかさけ)へ仕え、姉は他家へ嫁いでいずれも家を出ていた。北鍋屋町には老夫婦二人だけが暮らしていた。

 持軒は七十歳を過ぎた頃から体力の衰えがひどくなり、頻回の講義に耐えられなくなった。そのため持軒は、中級以上の門下生を他の漢学塾へと移籍させた。中でも、持軒と親交のあった石庵の塾へ移る者が多かった。舟橋屋四郎右衛門や道明寺屋吉左衛門などの有力商人も、もとは持軒門下であり、持軒の勧めで石庵の多松堂へ移籍した者たちであった。

 ところが蘭洲は、石庵が持軒の門下生を奪ったものと解釈した。

「石庵はそれとなく、老いた四書屋加助の講義よりも、もっと幅広く経書を学べる多松堂の方が身のためになる、とでも門下生に喧伝したのではないか?」

 そう思った蘭洲は、石庵に対して悪印象を抱くようになった。

 蘭洲は家塾を立て直すべく門下生を募り、かつ傭書によって日銭を稼ぎ、両親との生活を支えたが、無名の蘭洲の下には門下生があまり集まらなかった。持軒の場合、四書屋加助などとあだ名されたことはあったものの、それでも往年は門下生が引きも切らずの盛況ぶりであった。

 持軒が漢学塾を開いた当時、大坂では競合者がほとんど居らず、持軒が草分け的存在だった。それから約半世紀が経過した大坂では、漢学塾は珍しいものではなくなった。門下生を集めるには、何らかの売りか、ないしは名声がなければ競合者に打ち勝つのは難しい。

 家塾の束脩だけでは、到底親子三人の生活を賄えないため、蘭洲は傭書に精を出した。それこそ手に肉刺(まめ)ができるほど書写に励み、その収入をもって生活費に充てた。

 享保元年(一七一六)、二十歳になり、親子三人の生活に少し余裕が出てきた蘭洲は、京都にある伊藤東涯(いとうとうがい)の漢学塾「古義堂」に入門した。

 持軒はかつて、東涯の父、伊藤仁斎に師事したことがあり、東涯とも交流があった。蘭洲の入門はその縁を頼ってのものだった。

 と言っても、京都に移住したわけではなく、大坂に住みながら、ときどき淀川の三十石船で京都を往復し、経書の疑問箇所などを東涯に質問する、という学び方であった。

 東涯への入門は、多分に箔付けの意味合いが大きかった。

 この当時の儒者にとって、どの学派の出自であるかということが、その位置付けを決定する重要な要素であった。すなわち、林鳳岡(はやしほうこう)、木下順庵、荻生徂徠、山崎闇斎(やまざきあんさい)、それに伊藤仁斎・東涯父子などが有力な学派であったが、これまで特定の師に就いて学んでこなかった蘭洲には、出自と呼べるものがなかった。

「東涯先生に入門し、古義堂門下であると名乗れば、家塾にも門下生が集まりやすくなるのではないか?」

 蘭洲は、そういう思考が俗臭を帯びていることに含羞の思いを抱きつつも、出自がものを言うのが世の現実である以上、その倣いに従うのはやむを得ないと考えた。それに抗って孤高を貫き、みずからが儒学の一派を形成する気概で世に処するというのも豪快ではあるが、蘭洲は、自分にはそこまでの器量も学識もないことを十分自覚していた。

 結局、古義堂に通うようになっても、蘭洲の家塾はそれほど流行らなかった。

 仁斎、東涯の古義堂は門弟三千人と言われ、飛騨、佐渡、壱岐以外の日本全国から学徒がその門に参じたという。古義堂で学んだ者は全国に大勢いて、その門下であることはもはや希少価値ではなくなっていた。

「結局、流行るも流行らないも学塾経営の才能の問題なのか」

 蘭洲はそう悟ったが、その後も少ない門下生を相手に、細々と講義を続けた。傭書で生活を支えながら、儒学のほか、持軒の影響もあって和学にも造詣を深めた。

 平野郷に含翠堂ができると、持軒は旧知の土橋友直に招聘されて、年に数回ほど出講した。その際、石庵も同行することがあった。

 石庵のことは虫が好かない蘭洲だったが、高齢の持軒が自宅から二里半離れた含翠堂まで歩くのが心配だったため、同行する石庵に持軒のことを託した。

 石庵が同行しない場合は、蘭洲が持軒に付き添って平野郷まで出向いた。その際に土橋友直や井上赤水など、含翠堂創設の同志たちと顔見知りになった。

 享保四年(一七一九)、朝鮮使節団が大坂へ滞在した際、蘭洲は、本邦側の随行員であり、木門十哲の一人として名高い対馬藩儒の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)と面識を得て、自作の文章を見てもらった。

 享保六年(一七二一)閏七月、蘭洲二十五歳のとき、持軒が死去した。享年八十一歳。

 蘭洲は、持軒が思いのほか長寿だったのは、粗衣粗食にして清貧、身辺を飾らず、物欲がなかったことがその秘訣だったのではないかと思った。

 葬儀には、次兄と姉のほか、かつての弟子や、石庵ほか儒者仲間など、多くの人が弔問に訪れた。四書屋加助の人脈の広さは想像以上であった。蘭洲は、葬儀代を捻出できないため、やむなく持軒所有の書や刀剣を売ってその費用に充てた。

 蘭洲は、七歳から十七歳までの十年間、持軒によって親類の富島家に預けられたことのわだかまりがついに消えなかった。

「船場の街中で暮らす五井家なら、貧乏なりに家族みんなで助け合って暮らすこともできたのではないか? 当時七歳だったわしが本当に家を出る必要があったのだろうか?」

 蘭洲は、自分があのときに家から出されなければ、どこか歪んでいて、ひがみっぽく、被害者意識を抱きやすいこの性格を形成せずに済んだはず、という思いから逃れられなかった。鬼籍に入った持軒のことを本心から許す気持ちにはなれなかった。


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