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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第1章 妙知焼け
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(1-1)火事?


 享保九年(一七二四)三月下旬、冬の寒さがやわらぎ、春暖の心地良さが人々の心をも温めるようになった時候の出来事である。

 大坂船場の殷賑は季節を問わないが、それでも春の到来で、まるで冬眠から覚めたかのように街は活気を呈し始めていた。

 このとき石庵(せきあん)は、借家である高麗橋三丁目の自宅兼塾舎の書斎で、読み古した「四書集注(ししょしっちゅう)」を再読していた。時刻は暮六つ(午後六時頃)を過ぎ、すっかり日が没していたため、行灯のかすかな明かりを頼りに文字を追っていた。

 三宅石庵は、名を正名(まさな)(あざな)実父(じっぷ)、通称新次郎と称した。五年前から、淀屋橋筋を東へ一町ほど入ったこの地で多松堂(たしょうどう)という漢学塾を開いていた。北船場の街中にあり、商売が盛んな土地柄ゆえ、門下生には商家の旦那や番頭、手代、楽隠居の爺などが多く、まだ奉公に入りたての小僧もちらほら出入りしていた。石庵先生と呼ばれることが多いが、萬年(まんねん)という別号も称しているため、萬年先生とも呼ばれた。

 この日は講義がないため、石庵は午前中、知人の町隠居と一緒に、土佐堀川沿いの満開の桜を愛でてきた。夕刻からは書斎に籠り、目をしばたたかせながら書見していた。

 表通りが騒々しい。それに、どこからともなく「もの」が焼け焦げたような、燻されたような煙の臭いが漂ってくる。

 何事だろうかと思案している間にも、外の騒々しさはさらに増していた。

「火事だ―」

「早く逃げろ―」

 人々がそう叫びつつ、路上を駆ける足音までもが聞こえてきた。

 慌てて立ち上がったとき、十三歳になる息子の春楼(しゅんろう)が石庵の書斎へ飛び込んできた。

「父上、火事です!」

 南船場まで使いに行っていた春楼は、急ぎ駆け戻ってきたのか、ひどく息切れしており、両肩を激しく上下に伸縮させている。

「火事? 火元は何処だ?」

「しかとは分かりませんが、道頓堀の方ではないかと人は噂してます」

 半鐘を激しく叩き鳴らす音が聞こえてきた。近所にある火の見櫓からだけではない。遠くの方、それも複数箇所から甲高い金属音が石庵の鼓膜に響いていた。

「道頓堀が火元なら、まさかここまで燃え広がることなど考えられぬが」

「それが、今日は風が強くて、あちらこちらへ飛び火しているようです」

「それにしても、まさかここまでは……」

 天満へ用足しに出かけていた下男の嘉吉が、慌てた様子で書斎へ入ってきた。

「先生、これはまずいですよ。路上はもう大騒ぎです。気の早い人は大八車に家財を積んで、避難の準備をしています」

 石庵は外へ出た。果たして人々が路上を慌ただしく往来している姿が目に入った。大きな風呂敷包をかつぐ若者、乳飲み子をおぶって、かつ幼児二人を両の手につないで早足に進む婦人、上半身裸で家財道具を背負い、東へ向けて逃亡する中年男性、などなど。

 石庵は、春楼と嘉吉の三人暮らしであった。春楼の母親でもある夫人は、三年前に病で亡くなっていた。

「先生、とにかく持てるだけの荷物を持って、一刻も早くここを退散しましょう」

 嘉吉にそう急かされたものの、持ち出したい荷物はいくらでもある。亡き夫人と、夭折した子供たちの位牌はもちろんのこと、副業として軌道に乗っている丸薬の製造器具、それに膨大な数の漢籍や和書、加えて長年にわたって精魂を傾けて書き綴ってきた己が著書の類が、べか車の一台や二台では乗り切らないぐらいにある。

「荷物を持って、と言われても、どれとどれを持ち出すのか、わしには決められぬ」

「まさかここにある本をぜんぶ持ち出そうなんて考えていませんよね? それはどだい無理な話です。うちには荷車もありませんから、身の回りのものと、先生ならご家族のご位牌を風呂敷に包んで持ち出すぐらいがせいぜいです。迷ってる暇などありませんよ」

 そのとき、外から大きな嬌声が聞こえてきた。すぐに路上へ出て、淀屋橋筋方面に目を向けると、約二十間先にそびえている町内の火の見櫓が炎に包まれていた。

 火の手が上がっているのは火の見櫓だけではなく、周囲の家屋や店舗も、折からの強風に煽られて次々と炎の餌食となっていた。建物が密集しているだけに、火の勢いはとどまるところを知らず、次々と延焼を繰り広げていた。

「もうそこまで火の手が迫っています。先生、もはや猶予はありません」

「わかった」

 石庵はようやく行動を開始した。家へ入り、畳の上に大きな風呂敷を広げると、まず仏壇の位牌をそこへ投げ置いた。次に丸薬製造の道具、すなわち()(げん)(せい)丸器(がんき)ほかを置いた。

 あとは書物だが、どれを持ち出すべきか、考えがまとまらなかった。若年時から読み古した四書五経や陽明学の本をすべて持ち出したかったのだが、数が多いためそれは無理であり、かと言ってその中から必要なものを取捨選択する余裕もなかった。

 市販の書物なら、またいずれ入手も可能であろう。だが、自著は手稿本ばかりで、刊行したものがない。この書斎にあるものが唯一無二の原稿であり、これを焼失してしまえば改めて書き直すことなどもうできない。石庵はそう思い、自著を持ち出すことにした。

 ところが、その物量が思いのほか多く、反故紙の断片に書き散らかしたものまで含めると、両手一抱えでも持ちきれないほどにある。

 春楼と嘉吉はすでに荷造りを終え、二人ともまるまると膨らんだ風呂敷包みを背負って立っている。

「先生、本は諦めましょう。さもなければ、数を絞りましょう」

「しかし……」

「もう火の手はそこまで迫ってきているんですよ。急がないと逃げ遅れます」

 石庵はやむなく、仏壇などを包んだ風呂敷包に加え、自著の風呂敷包を一つだけ持ち出すことにした。二つが精一杯であり、持ちきれない自著は諦めるしかなかった。

 三人が外へ出ると、路上は先刻よりもさらに人であふれていた。すでに火の手は十間先まで迫っていた。

 避難する人々は東の方角へと向かっていた。そのまま東へまっすぐ大坂城の東横堀方面へ向かう流れと、途中で北へ折れて土佐堀川方面へ向かう流れとができていた。

「火は西から迫ってきています。とりあえず、人の流れに沿って東へ逃げましょう」

 嘉吉を先頭に、春楼、石庵が続く。一行は人の流れに押されるようにして進んだが、石庵が遅れ気味であった。春楼はそんな石庵を気遣うようにして、付かず離れず進んでいた。

 嘉吉はときどき後ろを振り返って立ち止まり、二人が近づくのを待った。春楼と石庵が近づくと、嘉吉はまた進み出す。その繰り返しであった。

 だが、路上に人があふれるあまり、三人は離れがちになった。嘉吉が後ろを振り返って立ち止まろうとしても、人に押し流されてしまってそれがかなわず、ついには嘉吉と石庵父子とははぐれてしまった。


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