第六話「持ち込み」
持ち込みという行為は、創作の世界における最初の関門であり、最も原始的な審判の場でもあります。
完成したばかりの原稿は、描き手にとっては分身のような存在です。
だが編集部にとってそれは、数多く持ち込まれる作品のひとつに過ぎない。
この第六話から、新たな視点の人物が登場します。
編集部の担当編集、赤城 明。
作品を読む側の人間。
評価を下す側の人間。
そして時に、創作者の運命そのものを左右する存在。
創作と商業、その境界に立つ者の視線を通して、物語は新たな緊張を帯び始めます。
どうぞ、あの独特の沈黙と息苦しさを感じながらお読みください。
原稿が完成した瞬間、部屋の空気が変わった。
最後のページ。
最後のコマ。
最後のベタ。
沈黙の中で、ペンだけが静かに置かれる。
「……できた」
誰に向けたわけでもない声が、狭い部屋に落ちた。
机の上には整然と揃えられた原稿の束。
白と黒だけで構成された、まだどこにも属していない物語。
その紙の塊は、異様な存在感を放っていた。
達成感よりも先に訪れたのは、現実感の欠如だった。
本当に描き上げたのか。
本当に形になったのか。
ページをめくる。
見慣れたはずの絵。
知り尽くしたはずの展開。
それなのに、どこか他人の作品のように感じられる。
「……こんなもんか」
呟きは乾いていた。
期待していた震えがない。
完成の高揚がない。
代わりに胸の奥にあるのは、奇妙な静けさだった。
数日後。
編集部へ向かう電車の中で、原稿ケースの重さだけが異様に意識されていた。
膝の上に置いた黒いケース。
その中に収まっているのは紙の束でしかない。
だが感覚としては、もっと別のものに近い。
経歴。
評価。
未来。
あるいは――
言い訳の効かない何か。
窓の外の景色が流れていく。
見慣れた街並みが、やけに遠く感じられた。
編集部のビルは、想像よりも普通だった。
巨大でもなければ、特別な威圧感もない。
ただのオフィスビル。
それでも入口の自動ドアの前に立った瞬間、足が止まる。
喉が乾く。
呼吸が浅くなる。
「……持ち込み」
小さく言葉にする。
その響きだけで胃の奥がざわついた。
何度も夢想してきた場面。
だが実際の現実は、驚くほど淡々としている。
受付。
待合スペース。
無機質なソファ。
壁に並ぶ過去のヒット作ポスター。
そこに流れる空気は冷静で、感情の居場所がない。
「本日はどのようなご用件で?」
事務的な声。
「持ち込みです」
自分の声が、妙に他人のもののように聞こえた。
案内された小さな会議室。
テーブル。
向かい合う椅子。
そして訪れる、短い待機時間。
この時間が最もきつかった。
評価はまだ下されていない。
だが逃げ場はすでにない。
ドアが開く。
入ってきたのは、年齢の読めない編集者だった。
穏やかな表情。
無駄のない視線。
「お待たせしました」
軽い挨拶。
原稿ケースに向けられる視線。
「拝見しますね」
その一言で、すべてが始まる。
ページがめくられる音だけが室内に響く。
紙の擦れる微かな音。
沈黙。
とにかく沈黙。
編集者の表情は変わらない。
頷きもなければ、驚きもない。
ただ淡々と読み進めていく。
時間の感覚が歪む。
数分なのか。
数十分なのか。
判別できない。
心臓の鼓動だけが異様に大きい。
やがて最後のページ。
視線が止まる。
沈黙。
そして。
「……なるほど」
初めて漏れた感想。
その曖昧な一言が、妙に恐ろしい。
「初投稿ですか?」
「はい」
「そうですか」
再び原稿へ落ちる視線。
「絵、上手いですね」
思考が止まる。
予想していなかった言葉。
「え……」
「かなり安定している」
淡々とした評価。
「線も綺麗だし、画面の整理も上手い」
胸の奥がざわつく。
評価されている。
だが同時に、奇妙な違和感が生まれる。
「ただ」
編集者は続ける。
「少し気になる点もあります」
その瞬間、空気が変わる。
期待と不安が同時にせり上がる。
「物語なんですが――」
呼吸が止まる。
編集者の指が、あるページを軽く叩いた。
「ここから急に“うまくできすぎている”」
静かな指摘。
「悪くない。でも少しだけ、作られた感じが強い」
胸の奥に冷たいものが落ちる。
「技術的には高いんです」
続く言葉。
「でも……妙に完成度が高すぎるというか」
視線が鋭くなる。
「誰かの作品をかなり研究されました?」
一瞬。
ほんの一瞬。
背筋を冷たいものが走った。
「……いえ」
反射的な否定。
編集者は微かに笑う。
「まあ、皆さんそう言いますけどね」
軽い冗談のような口調。
だが視線だけは、どこか探るようだった。
テーブルの上に置かれた原稿。
まだどこにも属していない物語。
それは確かに、自分の作品のはずだった。
それなのに。
なぜか。
どこかで。
正体を問われている気がした。
編集者という職業は、創作者の物語において非常に特異な立場にあります。
味方にもなり得る。
敵にもなり得る。
理解者にも、破壊者にもなり得る。
**赤城 明**は、この物語の中で単なる脇役ではありません。
彼は「読者」と「市場」と「現実」を背負った象徴的な存在です。
創作者の内側の論理と、編集部の外側の論理。
そのズレは必然であり、衝突もまた避けられません。
第六話で示された違和感は、評価の問題ではなく、もっと根深い領域へ繋がっています。
物語はここから、さらに不穏さを増していきます。
引き続き見届けていただければ幸いです。




