第五話「久遠彼方」
― 名前の由来
「久遠 彼方」という名は、響きの美しさだけで選ばれたわけではない。
久遠。
終わりの見えない時間。変質しない概念。留まることのない永続。
彼方。
手を伸ばしても届かない距離。輪郭を持たない遠景。常に向こう側にあるもの。
この二つの語を重ねたとき、そこに生まれるのは「存在の曖昧さ」だった。
性別を固定しない。
年齢を想起させない。
人格の具体像すら滲ませない。
誰であっても成立し、同時に誰でもない名前。
それは作家の名である前に、仮面として理想的だった。
作品だけを前面に押し出し、作者の実体を遠ざける。
現実から距離を取りながら、時間の中へ溶け込んでいく。
この物語において、その名は単なるペンネームではない。
「個人」を希釈し、「役割」だけを残すための装置である。
どうぞ、その違和感ごと受け取ってほしい。
ペンネームが決まった夜は、不思議なほど静かだった。
六畳一間。いつもの机。散らばった原稿用紙と、乾ききったコーヒーの匂い。
だがその日だけは、空気の質がどこか違っていた。
「……本当にこれでいくの?」
悠真は、画面に表示された文字列を見つめたまま言った。
久遠 彼方
たった四文字。
それなのに、異様な重量を感じる。
千景はベッドの端に腰掛け、何でもないことのように頷いた。
「いい名前じゃん」
「軽く言うなよ……」
「軽くないよ」
彼女の声は穏やかだった。
「かなり計算してる」
悠真は苦笑する。
確かにそうだった。
この名前は偶然ではない。
性別の印象を固定しない響き。
現実感と作家性の中間。
どこか物語を含んだ気配。
そして何より――
「……俺たちらしい名前だな」
無意識に漏れた言葉。
千景の視線が、わずかに揺れる。
「どこが?」
「距離感」
悠真は画面を見たまま答えた。
「近いのか遠いのか分からない感じ」
千景は小さく笑った。
「詩人ぶらないで」
だが、その笑いは完全には自然ではなかった。
二人とも理解している。
ペンネームの変更は単なる名義変更ではない。
それは再出発であり、過去の切断でもある。
「編集、納得するかな」
「するでしょ」
千景はあっさり言う。
「売れてる作家の名前なんて、ブランド扱いなんだから」
残酷なほど現実的な言葉。
悠真は黙り込む。
これまで使ってきた名前。
二人の時間。積み重ねた原稿。読者の評価。
それらを一度リセットする行為。
だが選択肢はなかった。
顔出しインタビュー。
署名。
違和感。
あの一筆が決定打だった。
もう以前の名前では続けられない。
「……怖くないのか」
ぽつりと呟く。
千景は少しだけ考えた後、静かに答えた。
「怖いよ」
予想外の言葉だった。
悠真は思わず顔を上げる。
彼女は窓の外を見ていた。
夜の街。無機質な光。
「でもさ」
続ける。
「名前って結局、外側の問題じゃん」
「……どういう意味だよ」
「中身は変わらない」
その一言が、妙に引っかかる。
中身。
作品。
役割。
境界線。
悠真の胸に微かな違和感が走る。
だが言葉にはしない。
してはいけない気がした。
「久遠彼方、ね」
千景が呟く。
「どっちが“久遠”なんだろうね」
「は?」
「別に」
彼女は肩をすくめる。
「何となく」
冗談めいた口調。
だが悠真は笑えなかった。
その問いは、この物語の核心をかすめていた。
永遠。
遠く。
時間と距離。
「……どっちでもいいだろ」
「本当に?」
千景の視線が戻る。
まっすぐ。
妙に鋭い。
悠真は目を逸らした。
数日後。
編集部との打ち合わせは驚くほどあっさり終わった。
「久遠彼方……いいですね」
担当編集は資料を見ながら頷いた。
「イメージ変えつつ、違和感がない」
ブランド。
市場。
読者層。
すべてが数字で語られる空間。
そこに「作者の実体」は存在しない。
「ではこの名義で進めましょう」
それだけだった。
あまりにも簡単な承認。
あまりにも軽い再定義。
帰り道。
駅前の雑踏の中で、悠真はぽつりと言った。
「呆気ないね」
「……まあな」
「名前ってこんなもんなんだ」
人の波が流れていく。
誰も二人を知らない。
誰も気にも留めない。
それなのに、彼らの中では世界が変わっている。
「これでさ」
千景が続ける。
「完全に別人だね」
悠真の足が一瞬止まる。
「別人?」
「だって」
彼女は当然のように言う。
「前の名前、もう使えないでしょ」
その通りだった。
だが、その言い方には微かな冷たさがあった。
「……そうだな」
「じゃあ」
千景は笑う。
どこか楽しげに。
「久遠彼方先生、よろしくね」
胸の奥で、また小さな違和感が生まれる。
冗談のはずの言葉。
それなのに。
呼び方。
距離。
温度。
何かが僅かにずれている。
その夜。
新しい原稿用紙の端に、悠真は試し書きをしていた。
久遠彼方。
久遠彼方。
久遠彼方。
繰り返し書かれる名前。
だが途中で、ペンが止まる。
奇妙な感覚。
この名前は誰なのか。
自分か。
二人か。
あるいは――
「何してんの?」
背後から千景の声。
振り返る。
彼女はいつもの調子で、原稿を覗き込んだ。
「練習」
「真面目だね」
軽い笑い。
だが次の瞬間、彼女は何気なく言った。
「もう“私たちの名前”じゃないのに」
時間が止まる。
「……え?」
「冗談」
千景は即座に笑った。
「そんな顔しないでよ」
いつも通りの声音。
いつも通りの表情。
だが悠真の胸に、鈍い何かが残る。
言葉は軽い。
意味は重い。
境界線。
名前。
役割。
そして――
ペンネーム。
机の上で、新しい署名だけが静かに乾いていた。
久遠 彼方
まるで最初から、一人しかいなかったかのように…。
名前とは、本来きわめて私的なものだ。
だが創作の世界では、名前は商品になり、記号になり、
時として人格そのものより強い意味を帯びる。
「久遠彼方」という名は、現実から作者を切り離すために生まれた。
同時に、それは極めて危うい選択でもある。
抽象的な名前は便利だ。
だが便利であるがゆえに、「誰でもない存在」へと滑り落ちる危険を孕んでいる。
名前が仮面であるなら、
仮面を被り続けた人間は、やがてどちらが素顔なのかを見失う。
物語はここから、より静かに、より深く歪んでいく。
引き続き、この不安定な世界を見届けてもらえれば幸いです。




