第三十五話「新作 ― サッカーマニア」
漫画は
温泉旅行から戻って数日。
東京の空気は相変わらず乾いていて、慌ただしく、容赦がない。だが悠真の心には、以前とは違う微かな熱が灯っていた。
机の上には白紙のネーム帳。
連載が終わってから何度も見つめてきた光景。
しかし今日は違う。
迷いではなく、確かな衝動がそこにあった。
「……サッカー、か」
無意識に零れた言葉。
テレビでは連日スポーツニュースが流れている。ゴールの瞬間、歓声、歓喜、絶望、逆転劇。
物語として、あまりにも完成された世界。
「なんで今まで描こうと思わなかったんだろうな……」
悠真は苦笑しながらペンを走らせる。
主人公の設定。
舞台。
物語の核。
頭の中でバラバラだったイメージが、次々と線になっていく。
タイトル案――
『サッカーマニア』
単純で、直球で、余計な飾りのない名前。
だが妙にしっくりきた。
サッカーに異常なほど取り憑かれた少年。
戦術、心理戦、才能と努力。
勝利への執着。
「いいな……これ」
自分でも驚くほど、手が止まらない。
かつての連載では、常に「どう売れるか」「どう続けるか」が頭を占めていた。
だが今は違う。
ただ、描きたいものを描いている。
その感覚が、妙に新鮮だった。
⸻
数日後、編集部。
明はネーム帳を無言で読み進めていた。
ページをめくる音だけが会議室に響く。
悠真の心臓の鼓動がやけに大きく感じられる。
やがて最後のページに到達し、明の手が止まる。
沈黙。
長い、長い数秒。
そして――
「……なるほどな」
低い声。
顔を上げた明の目は、わずかに鋭さを帯びていた。
「悪くない」
その一言だけで、悠真の緊張がわずかに緩む。
「本当ですか……?」
「ただのスポーツ漫画じゃないのがいい」
ネーム帳を指で叩きながら続ける。
「サッカーを題材にしてるが、描いてるのは人間の執着だ」
悠真は思わず息を呑む。
まさに自分が無意識に込めていた部分だった。
「タイトルも悪くない」
「『サッカーマニア』……どうです?」
「バカっぽくていい」
容赦のない評価。だが、明の口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「尖ってる」
その言葉は、何よりも嬉しかった。
「これ、持ち込みじゃなく企画で通すぞ」
悠真は目を見開く。
「え……?」
「編集長に直接出す」
即断だった。
「次の武器になるかもしれん」
胸の奥で何かが弾ける。
打ち切りから続いていた不安、停滞、焦燥。
それらを押し流すような感覚。
新作。
新しい物語。
まだ何も保証されていない。
だが確かに、前へ進む一歩だった。
会議室の窓の外には、変わらぬ東京の景色。
それでも悠真には、世界が少し違って見えた。
――終わった物語の先には、必ず次の物語が待っている。
編集長への提出は、驚くほど早く決まった。
「今出す」
明はそう言ってネーム帳を抱え、悠真を連れて編集長室へ向かった。廊下を歩くわずかな時間が、やけに長く感じられる。
新作を見せる瞬間。
それは連載会議以上に緊張する時間だった。
打ち切りの記憶が、どうしても頭をよぎる。
評価されなかった現実。
数字という壁。
だが、ここで怯んでも何も変わらない。
編集長室のドアがノックされる。
「失礼します」
明の声は相変わらず落ち着いていた。
編集長は机に向かったまま視線だけを上げる。
「何だ」
「新企画です」
簡潔すぎる説明だった。
明は迷いなくネーム帳を差し出す。
編集長はそれを受け取り、無言で読み始めた。
部屋の空気が一気に重くなる。
ページをめくる音。
時計の針の音。
悠真の喉が乾く。
自分の未来が、今この沈黙の中にあるような錯覚。
編集長の表情はほとんど変わらない。
だが、その沈黙が何よりも怖い。
やがて、最後のページ。
手が止まる。
沈黙。
そして――
「……サッカーか」
低い声が落ちる。
悠真の心臓が跳ねる。
「スポーツ物は競争が激しいぞ」
予想通りの言葉だった。
だが明は一歩も引かない。
「普通のスポーツ漫画じゃありません」
編集長の視線が鋭くなる。
「ほう」
「サッカーを使った人間ドラマです」
迷いのない言葉。
編集長は再びネーム帳へ視線を落とす。
「……確かに、試合より心理描写が前に出ているな」
ペンで机を軽く叩く。
「主人公が異様だ」
その評価に、悠真は思わず息を呑む。
狙った部分だった。
才能でも王道でもない。
執着に取り憑かれた少年。
「タイトル」
編集長が呟く。
「『サッカーマニア』か……」
一瞬の沈黙。
「悪くない」
短い言葉。
だが、その重みは計り知れなかった。
悠真の全神経が集中する。
「企画として回す」
編集長は淡々と告げた。
「連載候補だ」
その瞬間、時間が止まったような感覚に襲われる。
連載候補。
まだ確定ではない。
だが、確実に前へ進んだ証。
明は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
編集長は視線を外さぬまま続ける。
「ただし」
空気が引き締まる。
「次のネームで真価が決まる」
容赦のない現実。
「一話目で掴めなければ終わりだ」
甘さは一切ない。
だが、それこそがこの世界だった。
編集長室を出た瞬間、悠真はようやく大きく息を吐いた。
「……生きた心地しなかった……」
本音だった。
明は小さく笑う。
「いい顔してたぞ」
「どこがですか……」
「震えてなかった」
その言葉に、悠真は一瞬言葉を失う。
恐怖はあった。
不安もあった。
それでも――
逃げなかった。
「次のネーム、描け」
明の声が低く響く。
「勝負はここからだ」
悠真は静かに頷いた。
打ち切りで終わった物語。
だが今、確かに新しい物語が動き出している。
――漫画家の戦いに“安定”など存在しない。あるのは、次の一ページだけだった。
ダメかもね




