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半身のペンネーム  作者: マーたん


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第三十四話「湯けむりの再会」

第三十四話「湯けむりの再会」では、打ち切りという大きな挫折を経験した後の時間を描いています。


連載が終わった瞬間、物語だけでなく、日常や心のリズムまでもが失われてしまう――それは多くの創作者が直面する現実です。

本話では、そんな停滞と空白の中で、気分転換として訪れた温泉旅行という穏やかな舞台を通じて、創作の感覚が静かに蘇っていく過程を描きました。


特別な事件ではなく、静かな時間や何気ない会話が、人の心を前へ進ませることもある。

その小さな変化を丁寧に描くことを意識した章です。

打ち切りから数週間。


慌ただしかった日常は嘘のように静まり返り、悠真の生活にはぽっかりと空白が生まれていた。締め切りのない朝。電話の鳴らない昼。夜更かししても追われない時間。


それは、望んだはずの「自由」だった。


だが同時に、ひどく落ち着かない日々でもあった。


机に向かっても連載原稿はない。描くべきページはない。それでもペンを握る癖だけは抜けず、意味もなくネーム帳をめくる日が続いていた。


そんなある日、一本の電話が入る。


聞き慣れた声だった。


「久しぶりだな、悠真」


一瞬、言葉を失う。


「……明さん?」


電話の向こうで、わずかに笑う気配。


「編集部に顔出せるか?」


胸の奥で、何かがざわめいた。



編集部の会議室。


そこにいたのは、以前と変わらぬ明の姿だった。少し疲れたようにも見えるが、その目の鋭さは変わらない。


「急で悪いな」


そう前置きして、明は資料を机に置いた。


「担当、俺に戻ることになった」


悠真は思わず目を見開く。


「え……?」


「上の判断だ。色々あってな」


あっさりとした口調。しかし、その裏にある事情の複雑さは容易に想像できた。


打ち切り。担当変更。編集部の人事。


この世界では、何もかもが流動的だった。


「……また、明さんが?」


確認するように問う。


「不満か?」


即座に返ってくる言葉。


悠真は小さく首を振った。


「いえ……むしろ……」


言葉を探す。だが、適切な表現が見つからない。


安堵。緊張。嬉しさ。


様々な感情が入り混じる。


明は小さく息を吐き、椅子にもたれた。


「で、本題だ」


そう言って差し出されたのは、意外な内容だった。


「温泉旅行?」


思わず読み上げる。


「編集部の慰安も兼ねてる。お前も来い」


「え……いや、なんで僕が……」


「気分転換だ」


明は即答した。


「今のお前に一番必要なものだろ」


反論できなかった。


打ち切り以降、まともに休んだ記憶はない。いや、時間だけはあったが、心は休めていなかった。


創作の焦燥。将来への不安。自責。


それらが静かに積もっていた。


「温泉なんて行ってる場合じゃ……」


そう言いかけた悠真を、明は遮る。


「だから行くんだ」


強い口調だった。


「煮詰まった頭でいいもん描けるか?」


沈黙。


「漫画家はな、描かない時間も仕事なんだよ」


その言葉は、妙に重みを持って響いた。



数日後。


山間の温泉地。


立ち上る湯けむり。静かな空気。東京とはまるで別世界の景色。


旅館の窓から見える雪景色に、悠真は思わず息を呑んだ。


「……すごいな……」


無意識に零れる言葉。


都会の喧騒から切り離された空間。締め切りも、電話も、会議もない時間。


湯に浸かりながら、悠真はぼんやりと天井を見上げた。


不思議な感覚だった。


何も考えなくていい時間。


しかし、脳裏には自然と浮かぶものがある。


新しい物語。

描きたい場面。

まだ形にならないアイディア。


湯の温もりが、固まっていた思考を溶かしていく。


露天風呂で偶然隣になった明が、小さく笑う。


「どうだ」


「……悔しいですけど……」


悠真は苦笑する。


「ちょっと楽になりました」


「だろうな」


当然のように返す明。


「止まってるようで、ちゃんと前に進んでる」


夜の宴席。編集部の人間たちの笑い声。何気ない会話。


そのすべてが、悠真の中の重さを少しずつ軽くしていく。


打ち切りで終わったはずの時間。


だが――


物語はまだ続いていた。


湯けむりの向こうで、新しい何かが静かに動き始めていた。


――次の一歩は、いつも予想外の場所から始まる。


夜更けの旅館は、驚くほど静かだった。


宴席の喧騒が嘘のように消え、廊下には足音ひとつ響かない。窓の外では、淡々と雪が降り続けている。


悠真は自室の座卓にネーム帳を広げたまま、ペンを指で転がしていた。


温泉に浸かり、酒も少し入ったはずなのに、頭は妙に冴えている。


いや――正確には、久しぶりに「創作の感覚」が戻っていた。


白紙のページ。

何もない余白。


だがそこに、不思議と恐怖はなかった。


むしろ、どこか懐かしい感覚。


「……描きたいな」


自然に零れた言葉。


連載中には決して口にしなかった感情だった。

あの頃は「描かなければならない」が全てだった。


だが今は違う。


純粋な衝動。


ふと、障子の向こうで気配が止まる。


「起きてたか」


聞き慣れた声。


「明さん?」


障子が静かに開き、湯上がり姿の明が顔を出す。片手には缶ビール。まるで遠慮という概念が存在しない自然さだった。


「邪魔だったか?」


そう言いながら、すでに部屋へ入ってくる。


「いえ……どうぞ」


悠真は苦笑しながら座り直した。


明はネーム帳に視線を落とし、わずかに眉を上げる。


「もう描いてんのか」


「……なんとなく、ですけど」


「いい傾向だ」


即答だった。


明は向かいに座り、勝手にビールを開ける。小さな金属音が静寂の中で妙に大きく響いた。


「何考えてた」


単刀直入な問い。


悠真は少しだけ迷い、口を開く。


「新しい話です」


「どんなだ」


「まだぼんやりですけど……」


ネーム帳を見つめながら続ける。


「打ち切りとか、連載とか……そういう世界の話じゃなくて……」


言葉を探す。


「もっと単純な話を描きたいんです」


明の視線が鋭くなる。


「単純?」


「はい」


悠真は小さく頷いた。


「ただ面白いだけの話です」


部屋の空気がわずかに変わる。


明はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。


「それが一番難しいんだよ」


「……やっぱり、そうですよね」


「当たり前だ」


ビールを一口飲み、続ける。


「理屈もテーマもメッセージもいらねえ。ただ面白い」


明の声は低く、しかしどこか楽しげだった。


「全漫画家がそこ目指してる」


悠真はネーム帳を見つめる。


打ち切りで味わった現実。

数字という壁。

評価という恐怖。


それでも――


描きたいと思っている自分がいる。


「明さんは……」


ふと問いかける。


「僕、まだやれますかね」


静かな問いだった。


慰めでも励ましでもない、純粋な確認。


明は一瞬も迷わなかった。


「やれるかどうかじゃない」


短く言い切る。


「やるかどうかだ」


その言葉は、相変わらず容赦がない。


だが同時に、妙に明確だった。


「打ち切り食らって終わる奴は腐る」


明の視線が真っ直ぐに突き刺さる。


「続ける奴だけが残る」


悠真の胸の奥で、何かが熱を帯びる。


理屈ではない。


ただの意地。

ただの執念。


それでも確かな「前へ進む力」。


窓の外では雪が降り続けている。


静まり返った温泉地の夜。


悠真はそっとペンを握り直した。


白紙のページに、ゆっくりと線が刻まれる。


打ち切りで終わったはずの物語。


だが――


漫画家としての物語は、まだ終わっていなかった。


――湯けむりの向こうで、新しい連載の影が静かに形を取り始めていた。

第三十四話では、激しい展開や衝撃的な出来事ではなく、静けさと余白をテーマにしています。


打ち切りは終わりではあるものの、創作そのものの終焉ではありません。

描かない時間、立ち止まる時間、何も進んでいないように見える時間もまた、次の作品へと繋がる重要な過程となります。


温泉という非日常の空間、そして明との再会と会話を通じて、悠真の中で再び芽生える「描きたい」という衝動。

それは創作者にとって何よりも強い原動力であり、物語を続けるための唯一の火種でもあります。


物語は常に順風満帆ではなく、むしろ停滞や挫折の連続です。

それでも歩みを止めなかった者だけが、新しいページへ辿り着く――そんな思いを込めた一話となりました。

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