第三十三話「打ち切り」
…
その知らせは、あまりにも突然だった。
編集部に呼び出された悠真は、いつもの打ち合わせだと思っていた。新しい展開、次の山場、あるいはドラマCDの反響――そんな前向きな話題が並ぶはずだった。
しかし、会議室に入った瞬間、空気の違いに気づく。
編集長と担当の明、そして橋場洋一の表情が、どこか重い。
嫌な予感が胸をよぎる。
静寂を破ったのは編集長だった。
「……『探偵倶楽部』だが、次号で終了が決まった」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
悠真の思考が止まり、耳鳴りだけが大きく響く。
「終了……?」
かすれた声が、自分のものとは思えなかった。
明が視線を伏せたまま続ける。
「単行本の売上、読者アンケート、総合的な判断だ。決して作品の質だけじゃない」
橋場洋一も苦しそうに口を開く。
「僕も最後まで粘りました。でも……編集部としての決定です」
打ち切り。
その二文字が、鈍器のように胸を打つ。
何年も積み上げた時間、睡眠を削った夜、命を削るように描き続けたページ。
全てが、たった一言で終わる。
「……面白くないから、ですか」
悠真は静かに問いかけた。責める響きではない。ただ、確かめるように。
編集長は即答した。
「違う」
短く、しかし強く。
「面白いだけでは続かない。数字が要る。結果が要る。それが連載だ」
残酷な現実だった。
だが、それがこの世界の絶対的なルールでもあった。
悠真は拳を握りしめる。
怒りでも、涙でもない。
ただ、どうしようもない喪失感。
明が小さく言った。
「終わりじゃない」
悠真は顔を上げる。
「打ち切りは敗北じゃない。次に繋げられるかどうかで意味が変わる」
編集長も続ける。
「ここで潰れる作家は消える。這い上がる作家だけが残る」
会議室の窓の外には、いつもと変わらぬ東京の景色。
世界は何も変わらない。
変わったのは、自分の立場だけだった。
長い沈黙の末、悠真はゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました」
静かな声だった。
「最後まで、描き切ります」
編集長がわずかに頷く。
「それでいい」
明は少しだけ安堵したように微笑む。
担当橋場の目には、悔しさが滲んでいた。
会議室を出た瞬間、足取りが急に重くなる。
廊下の音、編集部のざわめき、全てが遠く感じた。
打ち切り。
それは物語の終わりではない。
だが確かに、一つの夢の終わりだった。
それでも――
悠真の中で、まだ消えていない炎があった。
ページを描く理由。
物語を紡ぐ衝動。
それだけは、誰にも打ち切れなかった。
――本当の勝負は、ここから始まるのかもしれない。
マンションへ戻る道のりは、異様なほど静かに感じられた。
いつもなら頭の中に浮かぶのは次のネーム、セリフ、コマ割り。
だが、その日は違った。
何も浮かばない。
エレベーターの数字がゆっくりと上がっていく。
その機械的な動きだけが、妙に現実味を帯びていた。
部屋に入り、机の前に座る。
描きかけの原稿が目に入る。
そこには、何も知らないキャラクターたちがいた。
物語が続くことを当然のように信じている顔。
悠真は原稿を見つめたまま、長く息を吐いた。
「……終わるのか」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、胸の奥から零れ落ちた音。
怒りは不思議なほど湧かなかった。
代わりに広がるのは、空洞のような感覚。
これまで何度も締め切りに追われ、限界まで描き続けた。
眠れない夜も、焦燥も、絶望も知っている。
だが――
「打ち切り」は別の種類の痛みだった。
努力ではどうにもならない領域。
数字という絶対的な現実。
ペンを握る手に力が入らない。
その時、スマートフォンが震えた。
明からのメッセージだった。
―― 落ち込むのは構わない。でも止まるな。描き続けろ。
短い一文。
だが、その言葉は妙に胸に刺さった。
悠真は小さく笑う。
「簡単に言ってくれるよな……」
呟きながらも、どこか救われる。
机の上の原稿へ視線を戻す。
ここで投げ出せば、本当に終わる。
だが、描き切れば何かが残る。
たとえ打ち切りでも、最後のページは自分で決められる。
それだけは、誰にも奪えない。
悠真はゆっくりとペンを手に取った。
インクの重みが、わずかに現実へと引き戻す。
「……最後まで、だ」
静かな決意。
真っ白な原稿の余白を見つめる。
終わりを描く作業が始まる。
だが不思議なことに、ペン先が紙に触れた瞬間、
止まっていた思考が少しずつ動き出す。
終わりのための物語。
キャラクターたちにどんな結末を与えるか。
どんな言葉で幕を閉じるのか。
苦しさの中に、微かな熱が戻る。
創作の衝動だった。
打ち切りでも、描くことは変わらない。
物語を生み出す感覚も消えない。
ペン先が走る。
コマが埋まり、線が生まれる。
静まり返った部屋の中で、
再び「漫画家の時間」が動き始めていた。
――物語が終わる日も、描く理由までは終わらない。
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