プロローグ:消えない刻印 第1章 ロスト・ジパング1853 再定義の都 エド・シティ編 1 第一話:灰色の星条旗
潰えた「嘉永」の夢
1853年。浦賀に現れた黒船が、静眠を貪っていた日本に開国を迫った。 この時、史実では「対話」を選んだ日本だが、この世界は違った。
列強諸国の圧倒的な軍事力を知らぬまま、日本は果敢にも「サムライの魂」を掲げ、一丸となって攘夷を決行。アメリカ合衆国との全面戦争に突入したのだ。 近代兵器を揃えたアメリカの猛攻により、日本軍はまたたく間に壊滅的な打撃を受けた。しかし、それでも彼らは戦い続けた。誇り高き抵抗はやがて泥沼の消耗戦と化し、日本国土は焦土と化していく。 だが、真の悲劇はその先にあった。
戦火で疲弊しきった火事場を狙い、北方から「ロシア帝国」が牙を剥いたのである。 抵抗しすぎたゆえに自衛の力さえ失った国は、瞬く間に二大巨頭に切り裂かれた。そして、「日本」という名は地図から消え去った。
時は流れ、20XX年。 主を失った島国は今、どう変貌を遂げたのか。 そして、この歪んだ歴史の果てに、世界はどのような「今」を迎えているのか。
――失われたはずの「ジパング」を巡る、孤独な戦いが幕を開ける。
「ぼうや、その席は間違っているわよ。あなたたちは、あっち」
透き通るような白肌の女性が、扇子をあおぎながら冷ややかに告げた。 ケンは、手の中の切符をぎゅっと握りしめる。
「これ、僕のチケットだよ。ほら、おじいちゃんが買ってくれたんだ」
幼いながらも知的な光を宿した瞳で、少年は正当な権利を主張した。しかし、後から乗り込んできたアメリカ人家族の父親が、ケンの肩を大きな手で乱暴に掴み、無理やり立たせた。
「まだ子供だから、世界の仕組みがわからないんだね。君は、あの『ニホンジン』たちの子供かな? ならば、今のうちに序列を勉強しておくんだな」
力ずくで席を奪われ、誇りごと通路へ放り出された。 自由席に逃げ込んでも、そこにはもう、小さな子供が座れる隙間などなかった。
目的地に着くまでの数時間、ケンは異臭の漂うトイレの前の狭いスペースで、ただ立ち尽くしていた。列車の振動が、足の裏から屈辱とともに伝わってくる。
――自分は、隠さなければならない血を引いている。 ――「ニホンジン」であることは、守るべき誇りではなく、誰にも知られてはならない秘密なのだ。
窓に映る幼い自分の影を見つめながら、少年はそう理解した。 その胸の奥に灯った静かな怒りが、やがて世界を塗り替える火種になる。
第1章 エド・シティ編
ロスト・ジパング1853 再定義の都 エド・シティ編 1
第一話:灰色の星条旗
その巨大な山には、もはや名前がなかった。 かつて「富士」と呼ばれたという標高三千七百七十六メートルの霊峰は、今や「極東監視拠点:ポイント・ゼウス」という無機質なコードネームで管理されている。山頂から突き出した無数の巨大アンテナが、冷たい冬の空を刺していた。
セクター51——かつて日本列島と呼ばれたこの地が、アメリカ太平洋連合帝国の一部となってから、160年が経とうとしている。
ケン・サトウは、エド・シティの中央にそびえる連合戦略分析局の四十二階で、窓の外に広がる灰色の摩天楼を眺めていた。通りを歩く群衆はみな、体にフィットした機能的なコートを纏い、公用語である標準英語で談笑している。 そこには、独自の文字も、独自の神も、独自の誇りも存在しない。あるのは、効率化という名の完璧な平和だけだ。
「ケン、また『遺物』を見ているのか」
背後から声をかけたのは、上官のミラー大佐だった。 ケンのデスクのホログラム・ディスプレイには、十九世紀の古い記録映像が投影されていた。黒い煙を吐き出す蒸気艦に対し、波打ち際で抜刀する、滑稽なほど無力な男たちの姿。
「……はい、大佐。なぜ彼らは、勝機のない戦いを選んだのか。ただ効率的に降伏していれば、これほどの犠牲は避けられたはずです」
ミラー大佐が去った後、ケンは震える指でコンソールの非正規ポートに、旧式のメモリーシグナキーを差し込んだ。 それは、闇市で「戦前のジャンク」として高値で取引されていた、出所不明のデータアーカイブだった。
ホログラムが明滅し、ノイズの向こう側に一つの図像が浮かび上がる。 それは英語のアルファベットではない。かといって、ケンが任務で扱うどの暗号体系とも異なっていた。
「……何だ、これは」
画面に映し出されたのは、墨で書かれたような、鋭く、かつ流麗な曲線を伴う幾何学的な紋様だった。
『独立』
中央演算処理装置(CPU)が、膨大な死語データベースからその意味を弾き出す。 「……言語名:オールド・ジャパニーズ(古日本語)。意味:Independence」
ケンはその形をなぞった。英語の "Independence" という単語は、権利や契約、あるいは法的地位を想起させる。しかし、この墨の塊のような文字には、何千もの死者の叫びと、奪われた大地の熱が直接宿っているような、暴力的なまでの質量が感じられた。
かつて一八五三年、ペリーが来航し、開国を要求した。日本は開国を拒否し、尊王攘夷の思想の元でアメリカと戦い、一瞬のうちに完敗する。そしてこの地が「アメリカ」に支配され、近代文明を受け入れたとき、先祖たちは代償として「言葉」を差し出した。日本語廃止令。それは、非効率な言語を捨て、近代化を加速させるための「賢明な選択」だと教科書には記されている。おかげでこの島は、アジア最大の英語経済圏となった。エリートたちは完璧な英語を操り、世界中の資本と情報を手にした。
だが、その代償として失われたものは何だったのか。 日本文学を始め、独特な日本文化はこの世界には存在しない。彼らの魂を形作るはずだった「言葉」そのものが、芽吹く前に根こそぎ引き抜かれたからだ。
「ケン、まだそこにいるのか」 同僚のチャットが、ケンの視界に緑色の文字で割り込む。
ケンは慌ててホログラムを消し、鏡を見た。そこに映るのは、支配者の軍服を纏い、支配者の言語で思考する、標準化されたアジア人の顔だ。 だが、網膜には先ほどの文字の残像が焼き付いて離れない。
「……オハヨウ」
ケンは、死んだ祖父が、深夜のベッドの中で震えながら呟いていた「呪文」を、記憶の底から掘り起こした。祖父はその意味を教えぬまま世を去った。 もしあの男たちが抜刀し、この言葉を守り抜いていたら。
ケンは自分の中に、見たこともない激しい感情の欠片が芽生えるのを感じた。それは「ルサンチマン」などという英単語では到底説明しきれない、剥き出しの飢餓感だった。
(つづく)




