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第一章 彩りを読む人 08

 ロイの表情が、(うれ)いたように曇った。


 手にした除構板を執務机の引き出しにしまい、小さく頷く。


「リドリーの見立て通り、これは『辛苦からの解放』情動。通称『安楽死情動』だね」


 リドリーは、ロイから同じ結論を聞いて、内心で頷いた。


「……何、それ?」

 クレイが、ロイの机に両手をついて、シャーレを覗き込みながら尋ねた。


 リドリーは、ラボから結晶を持ち出し、ロイの意見を聞くために執務室に戻っていた。ちょうど、クレイが進捗伺いにロイを訪ねていたところだった。


 ロイは、机上に置いた両手で、大事そうにシャーレを持って眺め、また小さく頷いた。


「強い憐憫や同情を向けた相手に対して、その苦しみから解放しようとする情動だよ。多くの場合、命を奪うという手段が選ばれる。同情する相手の苦痛を他の手段では解決できないと感じたときに、その決断を促す情動なんだ。兵士が多く負傷する国境や戦闘地域で、よくこの情動が出る」

 ロイは、いったん言葉を切って、「と、言われている」


「『安楽死』ってのも、すごい名前だな」

「一般的に、相手を苦しみから解放する手段で、死を選ぶことなんて思いもしないだろう? その場合はまったく別の情動が出現する。『解放』情動群は、手段を究極的に選ぶ傾向が強いんだ。平時なら救えるものでも、戦場では苦しみながら絶命を待つしかない負傷兵が多く出る。そういう時によく出てくる情動だから、便宜的にその名前で呼ばれているんだ」


 クレイは、宙を眺めながら、何やら考えをまとめようとしているようだった。ロイはリドリーにシャーレを手渡し、

「他に、結晶は混ざっていなかった?」


「廊下の二ヶ所で見つかっていた『付託』情動も、これに混ざってた。性質的には、犯行に関わっていないと思うんだけど」


 クレイが、ひらめいたような目を二人に向けた。

「スダリは、オリナが煤煙中毒に苦しんでいる様子を見て、同情して安楽死を考えた。で、扼殺したってことか!」


 リドリーは、ロイと目を合わせた。その目が「やっぱり」と言っていた。

「そうは、ならないんだよ」


 クレイは、ポカンと(うつ)ろな表情になった。リドリーは続けて、

「『辛苦からの解放』情動は、できる限り相手を苦しませたくない、という感情が基盤になっている。だから、まず扼殺を手段に選ばない、というのが定説なんだ。それは、窒息で命を落とすまでの苦しさを、行為者がたやすく想像できるから」


 仮に扼殺行為に入ったとしても、相手が死に至るまでの間、その手に伝わってくる相手の命の感触を味わい続けなければならない。下手をすると、長くて数分間、苦しみもがく様子を見続け、また感じ続けることになる。


 それは、深く同情を向けた相手に、できる限り苦しませず死を迎えさせたい、と思う情動とは真逆の選択なのだ。本能的に、行為に入れず、また行為を維持できないのである。


「つまり……どういうこと?」

 クレイは、まだ意味をつかめていない様子だった。


「結論から言うと、扼殺行為は完遂しなかった」


 クレイの目は、リドリーを捉えていたようだが、実は何も見ていなかったかもしれない。

「えええっ?」

 声とも音ともつかない響きを出して、クレイは動かなくなった。リドリーは少し気の毒に感じた。捜査室からは裏付けをつかんでこいと言われているはずだ。それが反証されて帰ったのでは、クレイの立場もないだろう。だから、と言うわけではないが、リドリーは説明を続けた。


「正確にいうと、扼殺行為は自分の意思で中断した。つまり中止未遂。場合によっては傷害罪。まだ結論が出せないんだ。いろいろ裏付けは必要だけど、これがいま言えること。でも、まだ捜査の手がかりはあるよ。この情動は、親族や友人、同じ境遇とか、親密な関係者から出現することが多いんだ。決して小さくない同情を感じる関係。この二人、もしかすると過去につながりがあるんじゃないかな」


 少し間があって、クレイがあわてて手帳を取り出した。

「スダリの経歴から出身地がわかる。夜警団が資料を持っているはずだ。奴の過去を洗ってみる」


 調子が戻ったようだった。クレイは、しばらく手帳に何か書き込んだ後、確認なんだけど、と言って、


「『失誤の隠匿』はよく聞くけど、それは、殺意になり得るんだろう? だったら、そいつで殺したことにならないのか?」


 ロイは深く頷いた。言葉を探すように、少し間があった。

「現場には、『失誤の隠匿』と『辛苦からの解放』の情動が出てきた。その性質から、どちらも犯人のものと思われる。そうすると、足りない情動があるんだ」


 クレイが、怪訝そうに細い眉を寄せた。リドリーが後を続けた。


「被害者であるオリナの情動が、見当たらないんだ。殺害現場であれば出てくるはずの、被害者特有の生存情動。いろんな種類があるんだけど、抵抗するとか、逃げようとするとか、そういう生き延びるための、半ば本能的な生存情動の反応が、現場からは出てこなかった。相手を信頼して願いを託す『付託』情動もこれには当たらない。考えられる一番の理由は、オリナが気を失っていた可能性なんだけど……」


 リドリーは、いったん言葉を切って、「ジルさんの解剖結果報告書は見たよね? オリナが煤煙中毒に陥っていたこと」


 クレイは頷いて、

「ああ。死因をちゃんと書いてくれてなかった、あれだろ?」


 クレイの口が尖っている。リドリーは諭すように、

「ジルさんに叱られるよ。……オリナは煤煙中毒症になっていて、現場に放置されれば、確実に絶命する状態だった。救護隊員のスダリなら、それがわかったはず。意識がないオリナを死なせたかったのなら、最終的に放置を選択すると考えるのが自然でしょう? 少なくとも、明らかに殺人となる扼殺行為を完遂する必要はない。……だから、まだいろんなことを調べないと、犯意が特定できないんだ」


 クレイは、唇をギュッと結び、難しい顔をして、うーん、と唸った。

「まずは、スダリの過去を調べるよ。顔見知りの線で、動機をあたってみる」


 ロイが、遠くを眺めながら、

「スダリ、オリナ……名前の感じからだと、中南西部の出身だね。グッフェン、ドレッド、ジャージス……」

 ここからなら、どの地域も駅馬車で丸一日以上はかかる。早馬を駆っても最低半日だ。途中、森を越える。


 クレイは渋い顔でため息をついた。

 そして、ふと二人と目を合わせ、

「そうだ、一つ分かったことがあったんだ」

 と手帳を振りながら、「火災の原因が、見えてきた」


 火元は、焼け方が最もひどい厨房のかまど付近だと考えられていた。リドリーは夜警団の検証資料を思い返した。厨房部分は一階建てで、母屋と隣接している。屋根の梁まで燃え上がり、母屋に燃え移ったと見られていたはずだ。


 敷地に侵入された形跡がなかったため、かまどの火の不始末によるものと考えられた。


「出火場所から考えて、調理担当の使用人を調べたんだ。こいつは、市場の近くに住んでいて、早朝に食材を仕入れ、勝手口の鍵を開けて厨房に入るんだけど、当日は、一日中休みを言い渡されていた。朝から酒屋でビールを飲んでいるのを目撃されているから、使用人による火の不始末じゃなかった」


 クレイは手帳を開いた。「他の給仕担当も合わせると使用人は五人。やっぱりみんな、当日は休みを出されていた」


「全員が休みだったの?」

「ああ。ちょっと不自然だろう? さすがに、使用人の一人が心配に思って、夕方に邸宅を訪ねたらしい。その時はもう火事で大騒ぎになってたんだけど。さらにこの使用人たちは、もともと住み込みの奴もいたけど、ひと月前に全員が通いに変更されてるんだ」


 まるで身辺整理だ、とリドリーは思った。住み込みから通いにしたのは、もうじき焼失する邸宅に私物を置かないように、と使用人たちに告げているようにも見える。


「後の調査で、厨房の床や壁に、油の燃焼残渣があったそうだ。厨房の油樽を倒したものだと考えられる」


 すると、ロイが静かな重い口調で、

「――オリナが自分で放火した、ということだね」


「やっぱり、そう思うよな」


 クレイは、小さく首を振った。「この事件、いったい何をつかめばいいのか見当がつかないよ。ったく……命をなんだと思ってんだ……」


 最後は呟きになっていた。手帳をパシンと音を立てて閉じた。


 リドリーも、現場検証で侵入者の情動感知を試みたときに、火元の厨房は念入りに調査した。しかし何の情動も出なかった。自宅への放火では、情動反応が出ないものもある。特に、身辺整理をして、案じるものが少なくなったときは――


 単に邸宅を燃やしたかったのか。あるいは命を絶ちたかったのか。それにしても、かなり破滅的な手段である。


「オリナは、身体を悪くしていたんだよね?」

「ああ。使用人からの情報だけど、たまに薬を飲みながら、療養してたらしい。ジル爺の解剖報告書にもあるかもな」


 病の苦しみがあったのだろうか、とリドリーは思った。もう少しジルさんに聞いておけば良かった――


 クレイは、短く息を吐き出すと、渋い顔から一転して気合のある表情になった。

「まずは過去の洗い出しだ。他に何かわかったら、教えてくれ」

 と、執務室を駆け足で出て行った。


「相変わらず、慌ただしいね」

 と、リドリーは、開けっぱなしのドアを見て笑った。ロイもその隙間から見える廊下を眺めながら、

「警察は、いま治安強化に力を入れているからね」


 古来より帝国では、民衆の生活安定のために、法術を駆使して、灌漑(かんがい)や品種改良で食糧生産を安定させ、また医術や薬の技術を大きく発展させて厚生面も充実してきたが、昨今は、さらなる治安の安定にも力が入っている。周辺諸国の中には、社会情勢に対する民衆の不安や不満から、王室が倒れて共和政に移る国が出始めていた。その不安を国内に入れないための動きと考えられていた。


 クレイは、スダリの身柄を軍に取られることを危惧していると言っていた。彼の言う『軍の介入』は、警察を管轄する保安局が神経を尖らせている要因の一つだった。しばらくは軋轢(あつれき)があるだろうな、とリドリーは思った。


 ロイが廊下を眺めながら、

「仕事で走り回るには、いい季節になるけれどね」


 リドリーは顔を覗き込むように、

「あれ? ロイも体力作り?」

「それはクレイさんにお任せしますよ」

「私たちが被疑者を追いかけること、ないものね。――でも、今回は、ちょっと追いかけなきゃ」


 視線をこちらに向けたロイに気づいて、リドリーは少し間を置いて小さく頷いた。

「やっぱり扼殺の完遂は考え難いけど、あの二つの情動が気になって。どちらが先に出たのかで、殺人か、そうじゃないか、変わってしまいかねないから」


 情動結晶は、その場にある情動の痕跡をすべて拾ってしまうので、出現の順番は判別できない。だが、実際には前後関係がある。


 『失誤の隠匿』は、扼殺行為につながり得る情動だ。

 もし先に『失誤の隠匿』情動が出ていて、その扼殺行為が完遂したとすると、次の『辛苦からの解放』情動は出るきっかけを失う。この情動は、死者に対しては出現しないからだ。つまり今回の場合だと、扼殺行為は完遂できなかったといえる。


 逆に、『辛苦からの解放』情動が先に出たとすると、理屈では、後の『失誤の隠匿』情動で扼殺が可能になる。もっとも、オリナに意識がなかったとしたら、放置すれば殺害できたはずなので、いずれにしても扼殺自体は疑わしいが、わずかな可能性があるとするなら、おそらくこの線しかないだろう。


 この二種類がどの順で出たのかによって、犯意の読み方が変わり兼ねないのだ。


「だから、今回は直接()に行ってみるよ」


 リドリーが言うと、ロイは一瞬だけ間を置いたが、笑顔になって、

「そうだね。きっとサリアスさんも、そうするように言うと思うよ。早速、明日の朝かな。僕も一緒に現場に行くよ。火災現場は崩れやすいし、見張りが必要だろうからね」


「ありがとう。――あ」

 エリスのことが気になった。きっと検分を見たがるだろうな、と思ったが、明日は朝から保安局で講義のはずだ。次の春に警察から捜査官の兼務任官を受けるため、定期的に事件捜査の基礎を学んでいる。だが、油断するとサボってしまうかも知れない。


 ちょっと黙っておこう、とリドリーはちらりと周囲を見回した。


「エリスなら、今日は資料整理が終わったから、もう帰らせたよ。だから残念がるのは、明後日(あさって)。できれば見せてあげたいけれどね」


 ロイが言うと、リドリーは一瞬目を丸くして、照れ隠しに笑みをこぼした。両手で頬をほぐすように揉みながら、

「顔に出てた?」

「声にも出てた」

 リドリーは、赤くなった顔をそのまま両手でおおった。


「エリスには、また機会を作ってあげよう」

 人の術を見るのは勉強になる。法印の編み方や制御、術圧の変化、術力の分岐統合など、それぞれが研究分野だ。


 リドリーは、頬の火照りを残したまま、指の間から目をのぞかせた。


 その瞳を、ふと(かげ)らせた。


「オリナが気を失っていたとしたら、情動がない説明はできるんだけど、ジルさんの話も気になっていて……」


 『両目の目尻から耳にかけて、涙の太い痕跡があったよ』


 ジルが言ったように、リドリーには、そこにオリナの意識が感じられた。もちろん火災現場なのだから、煙で涙の一つも流れるだろう。だが、彼女は床に仰向けに倒れ何を思っていたのだろうか、と考えずにはいられなかった。胸が苦しくなった。


 今回の現場は、不可解なことばかりだ。明日、この目で見て確かめなければ。


 ――お前にしか見えない事実は、証拠にならない。他の奴にも見えるものを突き止めろ


 不意に、サリアスの言葉が思い出された。

 見れば、もう引き返せなくなる――

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