第一章 彩りを読む人 06
ジル・カンファーは、朝から機嫌が悪そうだった。
聞くと、寝起きが良くなかったのだという。夜遅くまで解剖報告をまとめ、そのまま明け方に仮眠。だが程なくして、解剖局の部屋には多くの研究術師たちが登庁し、始業の準備をしていた。
研究術師の一人が、誤って石畳に金桶の束を落とし、その音でジルは起こされた。
「警察には、貸しが一つできたということで」
リドリーは、辛うじて笑みを浮かべて言った。
「もう回収しきれんよ」
ジルは、窪んだ眼のまぶたを半分閉じ、よく通る低い声で答えた。
年配の解剖術師は、法術衣を着たきりだった。鑑察官とは違い、解剖時の体液飛沫の汚染防止のため、白い麻のコートをさらに被っている。本来は使い捨てだ。
着替えてくる、と言って奥の準備室に入ると、ジルは白いコートだけ新しくして戻ってきた。
背は低めだが体格が良く、白コート姿がずんぐりとした佇まいだった。短い白髪なので、全身が白くなる。日に焼けた皺だらけの顔だけが浮かんでいるように見えた。
リドリーとロイは、西棟の北側にある解剖局の執務室にいた。壁にはアラバスターの窓が並び、昼間でも薄暗いはずなのだが、天井には法術の光球が多く灯され、手元に影がほとんど落ちないくらい明るかった。
かつては解剖室として使われ、新しい解剖室が奥に造られた際、そのまま執務室に変えられた。壁床や天井には、当時の古い解剖設備の跡があり、大昔はまるで処刑室のようだったと、尾ひれがついて生々しく語り継がれている。
「ゆうべの被検体の件だったな」
ジルは、解剖結果報告書と書かれた紙を持ってきた。遺体の身元と結論などを記した一枚目しかなかった。
「警察に提出するのに、複写の法術をかけたきりでな、まだ綴じる前なんだ」
昨夜は慌ただしかったのだろう。ロイが、ありがとうございます、と答えた。
書類を指し示すジルの指は、荒れて黒紫に変色していた。術媒として使う多くの薬剤が、皮膚内で法術と複雑に反応したためだ。前にリドリーが、「手袋を使わないと」と言うと、「してられねぇ。術が狂う」とジルは笑って取り合わなかった。研究者というより職人だ、とリドリーは思った。
「一見すると、火災現場によくある状態だ。煤煙の吸入により呼吸器官に煤が付着、気道には一部熱傷。だが、知りたいのはここだろう?」
ジルは、書類の一箇所を示した。「頸部に、左右ほぼ対称に二箇所ずつ、薄く青黒い楕円のシミがある。パッと見ただけでは気づかないが、皮下出血だ。形状から見て、扼痕と判断できる」
「よく見つかりましたね」
「最近の術師は、何もかも法具の作用だけで解剖しようとするからな。そういう奴には見つけられん」
ジルが聞こえよがしに言うと、部屋にいた何人かの術師たちが首をすくめた。ジルは諭すような口調で、
「法具は補助だ。術を使うにも、術者は毅然と意志を持たんといかん」
「両手で首を絞められていたわけですね。争った形跡は?」
緊張した空気を変えようと、リドリーは話を進めた。ジルは小さく首を振った。
「ない。被検体の爪にも、抵抗して引っ掻いた相手の皮膚などの残留物はなかった。扼痕を除いて、全身を診ても争ったような外傷がない」
言ってから、ジルは思い直したように、「争っていないとは言ってないぞ。痕跡が見当たらないだけだ」
と念を押した。
「扼殺体によくある、頸部の表皮剥脱はないし、顔の鬱血も、眼の溢血も見られない。舌骨も折れてない。表情は穏やかで、呼吸不全からくる痙攣の歪みもない。……それと、背中に出ていた死斑は、比較的鮮やかな紅色だ。これは、煤煙を吸い込んで命に関わるほどの内部窒息を起こしたときに出る、強い煤煙中毒症の証だ」
煤煙中毒とは、法術学では火災現場などで生じた気体を吸い込んで発症する、広義の窒息の一種とされている。最近では、密室で薪ストーブや石炭を焚いた『空気汚染』も、同じものとだ分かっていた。
リドリーは、どう質問していいか迷ったが、
「それは、……扼殺、なんですか?」
「一見すれば、煤煙中毒による中毒死だ」
ジルは小さく首を振りながら「だが、微かな扼痕がある」
「……じゃあ、やっぱり……」
「扼痕があると言っただけだ。それが死因だとも死因でないとも言っていない」
解剖術師の言葉は、客観を強く意識したものだった。ジルは笑って、
「扼殺行為の形跡がある、ということだよ」
ロイが、書類を読みながら、
「どれくらい絞めたのでしょう? 強さや時間がわかる手がかりはありますか?」
「被検体の皮膚は、薄くてもろい。握力次第だが、数秒間でも皮下出血を起こして、扼痕ができた可能性は高い」
ジルは、自分の首を手のひらでさすった。
「今回の被疑者は右利きのようだが、左手の親指が、頸動脈を捉えていた」
ということは、頸動脈を絞めたのは偶然の可能性が高い、とリドリーは思った。
「大抵、扼殺体は顔面に鬱血が生じる。顔の大きさが変わるくらいな。頭に上った血が、静脈が絞められて身体に降りなくなるからだ。一方でこの被検体は、大量の煤煙を吸い込んで、強い中毒症状にあった。さほど強く絞めなくても、頸動脈が軽く圧迫されただけで内部窒息は加速しただろう」
と、ジルは書類の死因欄を示して、「解剖上の所見は、重度の煤煙中毒症および頸動脈圧迫による内部窒息助長の可能性、だ。どちらが直接の死因かは断定できない。動機や状況次第でどうとでもなる、ということだ」
ロイが思案顔で、
「争った痕跡がないのなら、先に首を絞められてから、抵抗して逃れた後で煤煙に巻かれて中毒になった、ということはないですね。扼殺行為は煤煙中毒の後にあり、それが殺人と言える程度であったのかが、焦点になる」
リドリーは、軽く握った左手を口元に寄せた。煤煙中毒で死亡したのなら、扼殺行為が未遂罪、場合によっては傷害罪にとどまる可能性がある。扼殺行為がどの程度維持されたのかで、罪状は変わる。
ジルは、二人が難しい顔をしているからか、なだめるような口調で言った。
「そんな顔を向けないでくれ。俺には『捜査権』はない。確認し得る解剖結果を出すことしかできないんだ」
ジルの言う『捜査権』とは、被害者の死因となった犯人の行動を断定する権限のことである。特に今回のように、複数の死因が考えられるときは、直接の死因がどれなのかを判断しない。
解剖の役割は、遺体の痕跡から、起こり得る生体現象を説明するまでで、犯人の意思行動を断定するのは『捜査権』の範疇なのだ。ジルの言葉が慎重なのは、その職域を意識してのことである。
リドリーが尋ねた。
「被害者は、急性の煤煙中毒で苦しんでいたんでしょうか?」
「症状が軽いと、頭痛や吐き気、めまい、まあそれなりに苦しいだろうな。だが、重度になると、急性ならまれに意識を保てることはあるが、大体は意識障害が出るから、苦しいと感じるかは状況によるだろう。もっとも、確認しようにも、重度から生きて帰ってこられた患者の場合、記憶が失われていて自覚がないそうだがな」
「扼殺行為をしなくても、被害者の死は確定的だったと言えますか?」
「それは難しい質問だな……。煤煙中毒は時間との戦いだ。すぐに火災現場から救出して治療を受ければ、助かったかもしれん。だが、何もせずしばらく放置されていれば、中毒が進んで確実に死ぬ。扼殺なんかしなくても、な」
しばらく、誰も話さなくなった。ジルは腕を組んで、
「他に、質問は?」
ロイが、ジルと目を合わせた。
「被害者が、火災現場から担ぎ出された後に死亡した可能性はありますか?」
ジルは、思わせぶりにニヤリと口元を歪ませた。
「ある。中毒症が悪化してな。もはや、何で死んだかは、解剖ではこれ以上確かめようがないが」
つまり、ジルが言うように、犯人の意思がどうだったか次第で『どうとでも』なってしまうのだ。殺害の犯意があると鑑定すれば、殺害が完遂したと判断されるし、そうでなければ――
リドリーは、目を閉じて呟いた。
「仮に、死なせる意思があったとしても、どうして、被害者を現場に放置したままにせずに、扼殺をしなければならなかったのか……」
それに耳を傾けたのか、ジルはじっと宙を眺めるように、何やら思いに耽った様子になった。やがて、ゆっくりとした口調で、
「お前たちは、『捜査官』だろう?」
穏やかな声だった。鑑察官は法王庁の職員だが、それと同時に警察から犯罪捜査官として兼務任官を受け、ジルの言う捜査権を持っている。情動結晶を鑑定して被疑者の行動を裏付けることが、鑑察官の職域であるからだ。
「床に仰向けだったんだろうな……。被検体の両目の目尻から耳にかけて、涙の太い痕跡があったよ」
リドリーとロイは顔を上げた。自然と背筋が伸びた。ジルは、二人を交互に見た。
「最後の思いを、鑑定書に書いてやってくれ」
祈るような響きがあった。




