第一章 彩りを読む人 05
「やっぱり、救護隊員の犯行なんでしょうか?」
と言いながら、エリスは慣れた手つきで、シャーレに薬剤を注いだ。
リドリーたちが法王庁に戻ったのは、幌馬車の影がすっかり長く延びた頃だった。今は、まもなく陽が地平に落ちようとしている。
「うん。狙いが外れちゃったな……」
リドリーは、シャーレの上に片手をかざしながら言った。
今日の成果は、エリスが屋内で採取した四つの情動だけだった。
外壁を念入りに調査したものの、結局、リドリーは情動を感知できなかった。敷地を囲む垣根を調べていた監察官たちにも、収穫はなかった。
――事実だけを見ろ
リドリーは、頭の中で自分に呟いた。侵入者の可能性がないと分かっただけでも大きな成果である。
二人は、法術衣の姿のまま、皆が『ラボ』と呼ぶ東棟二階の部屋にいた。正式には『結晶成長研究室』の名がある。その奥の処置室で、今回採取した情動を大きな結晶に育てる作業に一緒にあたっていた。
エリスとの約束通り、実講で院へ報告する課題の整理を手伝うためである。
「状況から見ると、被害者の女性と救護隊員の情動が取れているはずですよね」
「そうだね。情動結晶の分類と採取位置から、その二人が事件当時にどう動いていたか、見えるはずだよ」
リドリーはそう答えると、結晶を育てる作業の手を止めた。
単純な作業で、段階ごとに薬剤を加え、法術で定着させることをひたすら繰り返すだけだ。定常の段取りなので、丁寧に手順さえ踏めば、法術技量の差はほとんど出ない。
多くは、エリスのような研修生の通過儀礼的な仕事になっている。リドリーは自分で結晶を育てるのが習慣だ。サリアスの影響だった。
「そろそろ、固めようか」
リドリーは、シャーレにガラス質の樹脂を流し込んだ。空気が入らないように、ゆっくりとシャーレに満たす。情動結晶の劣化を防ぐ保存液で、最後に法術で樹脂をシャーレごと固めて完成する。エリスも、それに倣った。
樹脂で満たすと、観察しやすくなる。結晶に綺麗に光が入り込み、発色が良くなるため、その構造色が鮮やかに浮かび上がる。
それにしても、エリスの採取する結晶は、とても可読性が高い。訓練用の結晶を幾度も見てきたが、こうして改めて見ると、結晶の微細な筋が一本一本見えそうなくらいの精度だ。色彩の解像度も違う。これは才能だ、とリドリーは思った。
「自分で採取した結晶が、本物の証拠物件になるなんて!」
エリスは興奮して、大きな両目を見開いていた。リドリーは、エリスが作業していたシャーレを覗き込んだ。
シャーレの記号は、最初に採取した場所のものだ。
『失誤の隠匿』に分類される情動だ。臨場すると、十数回に一回くらい採取され、出現頻度は高い。
自分の過失で突発的な事故を起こしてしまった場合で、それを隠そうとする時に出現する。
最初から事故を起こそうとしたのではなく、あくまで突発的であるのが特徴だ。
修法院の教本にも初めの方に掲載がある。子どもが部屋の花瓶を壊してしまい、それを隠そうとする情動として、観察実験が紹介されている。
「実際の現場では、自分の落ち度を相手に責められたり騒がれたりして、誰にもバレたくないと思い、失態を隠すために相手を殺害してしまう、というのがあるね。他には、過失で殺害してしまい、その死体を隠した場所から出ることもあるし、隠した凶器から情動が出ることもある」
「……ひどいですね」
エリスは本気で怒っている。リドリーは、なだめるように、そうだね、と答えた。殺人事件の多くは、積年の恨みといった動機ではなく、その場の瞬間的な犯意で行われている。
人は簡単に狂気に落ちる、とサリアスがよく言っていた。
「今回は、たとえば騒がれたか、脅されたか、あるいは犯人に失態の心当たりがあったか……何か犯人にとって不都合が発生して、それを隠そうした。そしてその不都合の原因が自分にあると、はっきり自覚している」
「自分勝手ですね。許せない」
とエリスは言った。「絶対に捕まえなきゃ」
「院の課題としては、ひとまずは、そのあたりから報告できていればいいと思うよ」
と言いながらも、リドリーの瞳はシャーレから離れない。『失誤の隠匿』情動は、灰色がかった薄い緑色の結晶だ。だがリドリーはその中に、角度によって見え隠れする、別の色を捉えていた。
リドリーは、シャーレを片手に取りつつ、法術衣のポケットから、シャーレと同じ大きさの平たいルーペのような物を出した。除構板と呼ばれる法具だ。色の付いた円く薄いガラスが、何枚かスライド式に出てくる。そのうちの一枚を透して、再びシャーレを覗いた。
薄い灰緑色の奥に、水色にきらめく円形の情動結晶が浮かんでいた。
――聞いたことがある
目立たずに、他の情動結晶に隠れる特徴を持つ情動。
だが、リドリーは少し困惑した。被害者の首には、手で絞められた痕跡があったという。この隠れた情動が記憶通りのものだとしたら、
――犯行は、完遂されなかった……?
「先輩?」
エリスは細い声で言った。リドリーの緊張した様子に戸惑ったようだっだ。リドリーはシャーレをテーブルに戻して、笑みを浮かべた。
「あ、ごめんごめん。他のも見てみようか。警察の資料と合わせよう。もう目は通してるよね」
リドリーが、火災現場の一階の間取り図をテーブルに大きく広げると、エリスは情動採取した場所の座標に合わせて、四つのシャーレを置いた。『失誤の隠匿』情動は、被害者の死体と救護隊員が発見された書斎に置かれた。
「さあ、始まりはどこだろう?」
リドリーが問うと、エリスは「うーん」と唸って、書斎から最も遠い寝室にあるシャーレを指差した。
「『邂逅』の情動が最初です。夜警団の証言では、救護隊員が屋敷に突入した時には、かなり火が回っていました。そんな中を往復したとは思えません。寝室から廊下に出て――」
エリスは、寝室から書斎へのルート上にあるシャーレを順にたどり、「書斎に向かったと思います」
「うん。そうだね。『邂逅』情動の解釈は?」
「『邂逅』の情動は、思いがけず誰かに出会って、期待を伴う驚きを発した時に出現します。多くは再会を表しますが、ここでは、寝室に救護隊員が入り、火災で取り残された被害者が、その突然の救助に驚いて発したものと考えていいと思います」
初見としては悪くない、とリドリーは頷いて、寝室から廊下に出たところにあるシャーレを指した。書斎に向かって廊下を辿ると、同じ色のシャーレが置かれている。
「続く二つの情動は、どちらも同じ分類の情動だね。二つとも少し距離をあけて廊下にあった。どう見る?」
「これは……たしか『付託』情動ですよね? 依存情動の一種で、相手を信頼して何かを託したい、と感じることで出現します」
「正解。よく知ってるね。犯罪情動学より、臨床情動学の講義の方であったんじゃないかな。じゃあ、ここでは、なぜ出現した?」
「被害者が、助けに来た救護隊員を信頼して、避難経路の決定を委ねた、というのはどうですか?」
「うん。いい解釈だと思う。それじゃあ――」
リドリーは、別の資料を出した。同じ屋敷の間取り図で、火事の被害状況が書き込まれている。建材の炭化の度合いから火の回り具合を示したものだ。二つの間取り図を見比べるように、リドリーは指で示した。
「書斎までの移動経路の廊下が、強く燃えた領域で遮られているよね」
二つある『付託』情動の間に、炎の太い爪痕が斜めに横切っている。
「途中で玄関に向かえば、この範囲を避けて逃げられた。なのに、わざわざ奥の書斎に向かっている。燃えていたはずの中を越えてまで」
「本当だ! 避難経路としては不自然です! 裏口へ抜けるにも方向が違うし」
「うん。ここを越えるのは困難だったはずだね」
「煙に巻かれて、避難経路を間違えたんじゃないでしょうか?」
「じゃあ――」
リドリーの指は、最初の『付託』情動のシャーレから、炎の通り道を超えた先にある、もう一つの『付託』情動のシャーレを差した。
「さて、避難経路を間違えたのに、さらに救護隊員に信頼を寄せて、避難経路を託す情動が同じように出るか、と反論されたら、どうする?」
エリスは、うーん、と唸って、
「……再考が、必要です」
「そうだね。でも良く解釈できてるよ。こういうことをたくさん重ねて、いろんなケースを考えよう。明日の院への課題報告は、ひとまずはこれくらいで充分だよ」
だが、エリスはそのままじっと考え込んだ様子で、片手を口元に添えた。リドリーはつい笑みを漏らして、
「場合分けが複雑になってしまう時に有効な捜査手法は、なんだと思う?」
エリスは、考えを巡らせるように少し視線を宙に上げていたが、あ、と声を上げて、
「尋問です。この移動ルートの岐路で何が起きたのか、関係者の――ここでは被疑者の証言を参考にします」
「うん。たくさんケースを考えて準備するのも大事だけど、取り調べで枝葉を落としながら進めよう」
はい、とエリスは笑顔になって言った。
リドリーは、窓の外を見た。ちょうど陽が沈んで、陽射しのない明るい空が、ピンクとオレンジのグラデーションを描いている。
「もう暗くなっちゃうな。今日は終わろうか」
「ありがとうございます。これで明日の課題をまとめます」
リドリーは、書斎にあった『失誤の隠匿』情動のシャーレを手に取った。
「これは、もう少し調べるね」
「それ、さっきも見てましたよね。何かあるんですか?」
「まだ別の情動が混ざっている可能性があるみたい。資料を集めて詳しく調べておくから、また考えよう」
――この情動は、きっと捜査を左右する。慎重に調べないと
ふと、視線を感じた。
あ、しまった、とリドリーは思った。




