第一章 彩りを読む人 04
邸宅街に入って、走る幌馬車の中に最初に漂ってきたのは、微かな甘い匂いだった。木のヤニが焼けたものだ。
やがて、煙や灰の匂いがしてきた。とっくに火は消えているはずだが、鎮火に使った水が乾き始めて、湿った匂いを放っていた。火事自体は珍しくないが、貴族の屋敷も多く見られる地域で、それなりに騒動になった。
現場に着くと、封鎖当番をしている警官たちが出迎えてくれた。馬車は敷地の門扉をくぐり、芝生の庭に入って停車した。リドリーたちは、それぞれに法杖を持ち、法術衣姿で馬車を降りた。
リドリーは、その屋敷を見上げた。
庭の広さもそうだが、この辺りの邸宅では小さな方で、慎ましやかですらあった。しかし一人暮らしとしては、召使を付けても充分に持て余したに違いない。
建物の体は、レンガの外壁で辛うじて残っていた。だが、木の梁が焼け落ちて屋根は完全に崩落している。その時に巻き込まれたのだろう、二階の外壁の大半は、一緒に内側に崩れ落ち、建物の四隅や煙突部を残して谷型にえぐれたような姿だった。
この辺りは、アドル神教会の夜警団が消防を管轄しているはずだ、とリドリーは記憶を辿った。教会は法王庁との関係が強く、火災現場の検証がしやすいように、瓦礫の整理も丁寧にしてくれる。
リドリーは、構えが煤に包まれた玄関を入った。
ツンとした刺激臭が鼻をついた。馬車馬とは異なる獣くささが、湿気に混じっている。壁の断熱材に使った大量の羊毛が燃え、その屑が残って臭いを発しているのだろう。
屋根は完全に崩落し、一階の天井が半分以上なくなっている。そのせいで、広く青い空が見え、中は明るかった。内壁の木材は大半が焼け落ちていて、煤にまみれた外壁のレンガが、あちこちでむき出しになっている。
足元を見ると、床には泥や瓦礫が散乱していた。二階から崩落した外壁のレンガや、屋根を葺いていた暗灰色の石板もたくさん割れ落ちている。それでも夜警団が多くを撤去してくれたのだろう。リドリーは歩いて奥に入ることができた。
天井の様子を見るに、二階の方が被害が大きい。この様子では、二階から情動を採取することはできないな、とリドリーは思った。
部屋とも廊下とも区別がつかない中を、リドリーは奥に進んだ。
――感じる
リドリーは、首筋の肌にザワリとした小さな身震いを覚えた。悪寒のような、あまり歓迎したくない感覚だ。
法杖を握り直す。これを持って現場に来ると、法術を発動させなくても、強い情動の気配を感じる時がある。
床は、全体的に石畳だった。汚れてはいるが、一階の床なら情動を採取できそうだ、とリドリーは思った。
「これだけ崩れていたら、間取りでは位置が取れないね」
後ろから、ロイの声が聞こえた。天井が抜けているせいか、声に屋内の響きはなかった。
ロイは、一階を広く見渡せる場所に、手のひらの大きさの白く平たい石を置いた。そのまま庭が見える玄関に向き直る。石を前にして立ち、法杖の石突きで床を二度叩いた。
二秒ほど後、石がロイの背丈までふわりと浮上した。ぼんやりと青白く光ったかと思うと、庭に向けて強い光の線が走った。庭で、同じ形の石が宙で光を受け止めた。光の線はすぐに消え、浮いた石を包む淡い光だけになった。
「よし、始めよう」
ロイの声が号令となり、一旦、鑑察官たちは庭に出て集まった。皆を見回して、ロイはゆったりとした口調で言った。
「これより、オリナ・グラファド邸の情動採取を行う。侵入者を想定して、家屋の内と外に分かれて検分する」
ロイは、鑑察官たちに割り振りを告げていき、
「それから、エリス」
と、リドリーに目配せをしながら言った。
「家屋内の情動採取をしてみないかい」
通常、犯行現場の『情動採取』は主担当が行い、この案件では本来ならリドリーである。いわば任務の花形だ。綺麗に情動を採らないと、後の鑑定に支障が出ることもある。
「情動感知は、リドリーがする。それなら安心だろう?」
『情動感知』とは、採取すべき残存情動の場所を、犯行現場の中から特定する作業だ。
なるほど、とリドリーは思った。エリスが配属されて半年になる。彼女の法術の腕は確かだし、いい経験になるはずだ。
ふと、視線を感じた。
エリスが、目を丸くしてリドリーを見ていた。その表情には期待がこもっている。リドリーは笑顔になって、
「いいね。それ、やってみよう」
エリスの表情が、じわりと明るくなった。だが、はしゃぎはしない。鑑察官になる者は、現場で自分の情動を抑える特殊な訓練を受けている。現場の情動と混ざらなようにするためだ。
リドリーは、再び玄関から入り、屋敷の中央あたりに立った。振り返って、ロイに目配せをする。ロイは、玄関から様子を覗いている警官たちに、離れるように手振りで示した。
些細なことでは情動は残らないが、情動結晶では、誰の情動なのかの個体識別ができないため、一度混ざり合うと鑑定が難しくなる。警察の捜査から少し時間を置いて現場に入ったのも、捜査官たちの微弱な情動を風化させるためだった。
リドリーは、その場に直立し、目を閉じた。
法杖を両手で持ち、身体の正面で宙に立てて、深呼吸する。
すると、杖頭の円い装飾に沿って、円い法印の光が宙に浮かび上がった。
「安らかに」
リドリーはそう呟くと、身体の前に立てた法杖をそのまま宙に残し、両手をそっと離した。
両腕は左右に開かれ、腰の高さで手のひらが床を向いた。
細い幾本もの見えない『根』が、手のひらから地面に降りていく感覚を、リドリーは意識した。
すると、まるで床が水面であるかのように、リドリーを中心に、波紋が広がり始めた。
波紋の半径がリドリーの両の指先を充分に超えたあたりで、波は止まった。その幾重もの同心円の隙間に、青白い法術の文字配列が、瞬く間に敷き詰められていく。床に大きな法印が輝いた。
リドリーは、無数の『根』が床を掴んだのを感じた。
根を、床に沿って伸ばす。
床の大きな法印から、円が一つ外側に剥がれてさらに広がる。その円周上には、腰の高さまでオーロラのような淡いモヤが光っていた。
円は、屋敷の形に合わせて楕円になり、外壁を超えて、家屋をすっぽり包むように地面を囲んでいった。
淡い光は、鑑察官たちのすぐ目の前まで迫った。
「すごい……広い……」
思わず、エリスが呟いた。
リドリーは、根の中の何本かに、色彩を感じた。
全ての根に、術の圧力をかけてみた。円周上のオーロラが微かにパチパチと鳴った。
数は、変わりそうにない。
「女神の庇護に、憩い給え」
リドリーは、両手をそれぞれに握りしめ、見えない根を身体の前に引き上げた。すると、屋敷の床の数ヶ所から赤い光の柱が細く立ち上がった。手のひらくらいの直径の光で、そこにあるべき天井を超えて空に伸びた。
目を開け、左手で法杖を掴み取ると、床の法印が消えた。
「全部で四ヶ所。同じようなものもあるけど、念のために採ろう。建物の外壁は……特に異状はないみたい」
リドリーは、鑑察官たちを振り返った。皆、屋敷に入って、中を見渡した。
「あと一つ、どこでしょう?」
エリスが言うと、リドリーは玄関を背にして進み、燃え残った内装の壁を過ぎて、右に回り込んだ。
奥の隅に、煉瓦造りの小さな暖炉が見えた。
二階が屋根ごと落ちてきたのだろう。強い圧力で潰れた机の残骸や、チェストの板片もある。調度品は、なるべく撤去せず残されているようだった。部屋の中央だったであろう辺りの床に、黒炭になった棚の一部のような工作物が転がっていた。
リドリーは、迷うことなくその工作物に近づき、杖頭が光る法杖を右手で握った。宙をすくうように左手を胸元まで上げると、工作物はゴロリと裏返った。
ガサリ、と灰になった書物のページの破片が舞った。床から、隠れていた赤い光が、青い空に向かって伸びた。
――きっと、ここで亡くなっている
リドリーの勘だった。情動の色彩を特に強く感じた場所だ。
「これだけ焼けていたら、物証は少ないな」
そこにあったはずの天井を見上げて、リドリーは呟いた。燃えた上に二階と屋根が落ちてきたのだ。夜警団の手も入っている。警察でも、遺留品は期待できなかっただろう。情動結晶も、遺体や生体からは検出されないため、こうして荒れた現場で採るしかない。
リドリーは、後をついて来たエリスを振り返って、
「この場所から、情動採取をしてみよう」
「任せてください!」
エリスは、法術衣のポケットから円筒形のガラス瓶を取り出し、赤い光柱を前にして膝を床についた。ガラス瓶を傾けて、透明な液体を光の中の床にトロリと垂らす。
膝を床についたまま、エリスは法杖を赤い光柱の中に入れた。法杖が、光に支えられたように宙に浮いて静止する。エリスは床に垂らした液体を両手で丸く包み込んだ。真剣な眼差しが、その両手に向けられていた。
しばらくすると、ジリジリ、と小さな蒸発音が聞こえた。エリスは手を離し、法杖を取った。
赤い光柱が消える。
液体から細かな泡が出ていた。綺麗な泡だ、とリドリーは思った。とても白く、小さく粒も揃っているし、泡の弾けも早い。いい結晶が採れそうだ。
やがて泡が消えると、半透明の白いゾル状のかたまりになった。中央に緑色の円いモヤが入っている。情動結晶の種だ。エリスは、かたまりをピンセットで慎重につまみ、シャーレにそっと入れた。
「あと三か所だね。次に行こう」
「はい!」
自分でも満足の出来だったのだろう。エリスは、興奮気味に次の場所へ向かった。
リドリーは、エリスの作業に付き添い、最後の一ヶ所を単独で任せた後、玄関に戻り、庭に出た。
――女の遺体と、救護隊員
別の侵入者の存在を、どうしても考えてしまう。さっきは家屋全体に情動感知を広げたが、しかし、外壁付近に情動は感じられなかった。侵入者であれば、たとえ玄関から入る時でも強い情動を出すはずだった。
敷地は垣根で囲まれているが、その丈はリドリーの背ほどしかなく、家屋はよく見える。
――火災は昼間。目立つ二階からの侵入は考えられない
「一階からの侵入者を、もう一度、外から調べて見ようか?」
と、ロイに声を掛けられて、リドリーは驚いた。声が突然聞こえてきたことよりも、考えを見抜かれたことに驚いたのだ。ロイは笑って、
「ごめんごめん。でも、そんな顔をしていたからね」
「もう」
と、リドリーは苦笑いして「うん。やっぱり、侵入者の気配がないのが、納得できなくて」
師匠ゆずりだ、と皆に言われる。特に現場では、気になることを徹底して調べないと落ち着かないのだ。自然と単独での検分が多くなる。無理をして、師匠であるサリアスから釘を刺されることもあった。
「垣根の方は、マーシャたちが調べているよ。標定石は裏庭にも置いているから、このまま外側から家屋を調査しよう」
リドリーは、屋敷の周りの情動感知を行った。検分は念入りに、陽が傾き始める頃まで続いた。




