終章
「先輩!」
執務室に入ると、リドリーは視界いっぱいに迫るエリスの姿を捉えた。
――あ、ぶつか――
思う間もなく、駆け寄ったエリスに抱きつかれた。リドリーは辛うじて踏ん張った。
「すごいです! あんな難しい供述が取れるなんて! さすがです! ステキです!」
胸の中で、エリスのくぐもった声が物理的に響いた。
取り調べの翌朝、リドリーは登庁前に警察へ立ち寄り、ひと仕事済ませていた。
捜査室は、朝から狂奔状態だった。警察官たちに聞くと、リドリーが鑑定書を提出した昨夜から、追加聴取や捜査内容の整理に大わらわだったようだ。ようやく明け方近くになって、起訴を決定する予審判事へ、手続資料を同日中に送れる見通しが立った。
リドリーは、その内の供述調書の確認を頼まれていたのだった。
警察は、昼までに予審資料をまとめ、軍の身柄引き渡し要求を拒否するのだという。早朝に、その方針を軍の伝令に通達していた。
「朝から、お疲れさま」
奥の配膳室から、ロイの穏やかな声が聞こえた。「そろそろ、帰ってくるんじゃないかと思ってね」
リドリーの執務机に、ソーサーに乗せたティーカップがコトリと置かれた。ふわりと紅茶の香りが広がった。
「ありがとう」
「昨日は大変だっただろう。よく眠れた?」
「うん」
なぜか申し訳なさを感じながら、「こんな後でも、眠れるんだね」
「今日は、お好みで――」
ロイは、手にしたトレイからジャムの入った小皿を出した。リドリーは笑みをこぼして、
「最高だね」
と、手に持っていた小さな手提げ袋を持ち上げた。「捜査室で、クッキーもらっちゃった」
リドリーは、エリスの抱擁を解こうとして、肩に手をかけた。ふと、なぜかサリアスを思い出した。
――私は、立派な先生にはなれそうにないけど
エリスの頭を、ポンと軽く撫でた。
――少し頼れるくらいの先輩を目指してみるか
頭を撫でられたエリスは、まるで酔っ払った猫のように、近くの椅子に座って机に転がった。
「へへ……何だかわかんないけど、褒められちゃった」
「……褒めてはいないと思うよ」
とロイは言った。
「あ、よかった、いた!」
ドアが開くや否や、クレイが執務室に入ってきた。相変わらず急ぎ足で寄ってきて、
「ロイ、すまん、日をずらしたい」
クレイは顔の前で拝むように両手を組んだ。
リドリーが不思議に思って様子を眺めていると、それに気付いたのか、クレイは仰々しそうに、
「鑑察官さまの鑑定書で、予審資料をまとめなきゃいけなくなった。そのあと、公判の準備会議なんだ」
「……迷惑をかけたみたいだね」
リドリーが睨むような目を向けると、とんでもない、とクレイはまた拝むようにロイに向き直った。
「だから、日、ずらしたい」
「わざわざそれを言いに、ここまで来たのかい? でも、今日の今日じゃ、さすがに変えられないよ」
「ええっ」
とクレイは悲痛な声を上げた。やがて目をギュッと閉じて顔を背けるように、「本当に久しぶりだったのに……」
顔をしかめて腕組みをするクレイに、リドリーは何事かと声をかけようとして、目が合った。するとクレイは、じっと眺め返してきた。そして今度はロイに視線を向けて、リドリーを示すように、組んだ腕から器用に何度も指を差した。
「俺、戻らなきゃ。昼までにまとめなきゃいけないんだ」
渋い顔でドアに向かい、苦笑しながら振り返り、「じゃ、また別の日に入れといて」
「閉めてください!」
と、エリスは開けっぱなしのドアに言った。「もお!」
酔いが覚めたのか不服そうに立ち上がり、ドアの方に歩いて行った。
リドリーは事情が飲み込めず、何の指名だったのかと思い、
「なにかあったの?」
ロイは遠くを眺めるように目を逸らした。珍しく、言い淀んだ口調で、
「うん。その……捜査の協力をしてくれたお礼でね、夕食をご馳走することになっていたんだ」
――あ
リドリーは、鼓動が騒ぐのを感じた。同時に、何だか可笑しくなって、クスッとつい笑いが漏れた。
ロイは、小さく咳払いして、
「よかったら、一緒に食べに行かない?」
「よろこんで」
すると今度は、気兼ねしたような口調に変わって、
「分厚い肉のメニューだけれど、構わないかな?」
リドリーは笑った。
「わかった。おなか空かせとく」
席に着き、紅茶を手に取った。
「いただきます」
――仕事の話ばかり、か……
自分にだけ見えることに、幾度も迷うことはあった。
でも、いつの頃からか。
私がお菓子を持ってきたら、ロイがお茶を淹れてくれて、
私が見てきた景色の中で、ロイと一緒に事実を探した。
少し私に隠れた迷いを、笑ってロイが見つけてくれる。
そうだ、そうだった。私は、この時間が好きだったんだ。




