第一章 彩りを読む人 03
「先輩!」
部屋に入るなり、リドリーは、駆け寄ってくる人影を見て立ち止まった。あっ、まただ、これじゃぶつか――
反射的に踏ん張り、リドリーは胸元に飛び込んできた黒髪を受け止めた。
エリス・フォンドルは、リドリーの胸元に顔をうずめたまま、両腕で締めるように抱きついて、
「すごいです! カッコいいです! 素敵です!」
こもった声の賞賛が、リドリーの胸に物理的に響いた。エリスは、数秒間そのままリドリーを抱きしめ、思い出したように顔を上げた。
「おはようございます!」
高く透き通った声が、リドリーの耳に響いた。
「あはは……おはよう、エリス」
リドリーは、落ち着かせるようにエリスの両肩に手をやり、その抱擁を解いた。
「今日は、実講で昼までは院じゃなかったの?」
とリドリーは尋ねた。修法院で行われる実務講習のことで、配属一年目のエリスは、研修生として修法院のフォローを受けることになっている。
「行ってません」
と、エリスは笑顔でキッパリ言った。「昨日の夜、今朝から先輩が取り調べするって聞いたので、気になって来ちゃいました」
エリスのばっちりした目が、興奮気味にさらに大きく輝いた。頬は艶やかに赤みがさし、小さく何度も跳ねて身体を弾ませる。エリスのまっすぐ長い黒髪も、一緒に弾んでいた。
「取り調べの話、課長から聞いちゃいました。恐喝未遂の犯意鑑定なんて、すごいです」
もう話が回っているのか、とリドリーは半ば感心した。こういうことは、いい時も悪い時も伝播が速い。
部屋を見渡すと、こちらを伺っていた鑑察官たちが、拳を掲げたり、小さく手を叩いたりして、リドリーを労ってくれていた。リドリーは、照れた笑みを返す。みんなは、図らずもエリスに祝福を代表させているようだった。
リドリーはエリスに向き直った。
「ありがとう。ちょっと変わった被疑者だったから、たまたまだよ」
すると、奥の仕切られた部屋から、一人の若い男性が入って来た。艶やかなハニーゴールドの髪が印象的で、手にした小さなトレイには、ティーカップが二つ乗せられている。
少し低めの落ち着いた声が、リドリーを迎えた。
「おはよう。朝一番の取り調べ、お疲れさま」
ロイ・バートンは、リドリーの執務机まで来ると、スラリとした背筋を伸ばしたまま、カップとソーサーをひと組コトリと置いた。
「そろそろ帰って来るだろうと思ってね」
ヘーゼル色の瞳が、切れ長だが柔和な目もとに輝いている。眉は伸びやかな弧を描き、鼻筋が細く通ったとても端正な顔立ちだった。
笑みを浮かべると、少し無邪気な印象になる。そんなロイを見て、リドリーは少しホッとして自席に歩いて行った。
「ありがとう。もう出かける時間になっちゃったかと思ってた」
それは、リドリーが担当する予定の事案だった。だが、どうやら、お茶を楽しむ時間はあるようだ。
「そうだ、これがあるんだ」
リドリーは、執務机の深い引き出しを開けて、箱を出した。
「ターンバリーのクッキーだよ。一緒に食べよう」
エリスは、わぁ、と歓声を上げて、蓋を開けた。
「みんなにも、お願いね」
エリスは手際よく付属の油紙にクッキーを分けながら、
「主事ももう少し待ってたら、食べられたのに」
ロイは、自分もお茶を一口飲んで、
「少し前に、警察の捜査主事が課長室に来ていたんだ。詐欺グループの摘発に近づいたって、とても感謝されていたよ」
エリスも自分のマグカップを持って来て、
「最初は何のことか分からなかったんですけど、よく聞いたら、恐喝の、それも未遂犯の鑑定だなんて!」
恐喝は、被害者が弱みを握られていることが多いため、発覚が遅い。捜査を始める頃には、現場の情動が風化して採取しにくくなっていることも多い。さらに未遂となると、そもそも被害として届けられることも少ないため、恐喝未遂の犯意は、鑑察官にとって希少で鑑定しにくい案件なのだ。
リドリーは少し苦笑いした。警察と鑑察課では、注目する点が違う。警察では詐欺グループへの波及が注目されるが、鑑察課では犯意を鑑定する困難さが焦点になる。いつものことだが、警察と鑑察課が同じ事件捜査の枠で仕事をしているのを、不思議に感じてしまう。
「あとで取り調べの調書記録を見せてもらえるんです! 鑑察官の尋問技能を上げる研修課題にしたい、ってお願いしました」
エリスが言うと、リドリーの頭に、捜査主事の苦笑いが浮かんだ。警察への捜査協力を人質に取ったようで、そこそこ無理なお願いだ。あとで謝りに行こう……。
「……声を掛けておいたから、大丈夫だよ」
リドリーの懸念が伝わったのか、ロイが小声で言った。リドリーも小さく、ありがとうと言った。
リドリーは、自分の執務席に座った。
「いただきます」
ティーカップにそっと口をつける。そして目を閉じた。
鼻から深く息を吸い込むと、ミントと柑橘が交わったような爽やかな香りがする。頭の中が澄み渡るようだった。メリッサだとリドリーは思った。
カップを傾ける。少し熱めで飲み頃だ。ロイのお茶はいつも美味しい。心地よくて仕事のことなんて忘れそうだ。はちみつの柔らかな甘みが疲れを――はちみつが……
今朝の取り調べで盗品扱いだった小瓶が、ふと思い出された。
リドリーは、仕方なく目を開けた。
「エリス、院には出なくて大丈夫なの?」
「明日は行ってきます。みんなに自慢しなきゃ」
リドリーは慌てて、
「自慢じゃないでしょ。他の院生に捜査情報を漏らさないように」
エリスの育成担当はリドリーである。少し頭痛がした。
ロイが笑って、
「エリスは、院に報告することが、たくさんできるよ。午後から出動するからね」
ロイは、視線をリドリーに変えた。
「例の火災の件、予定より少し遅らせて、昼からにしたんだ」
リドリーがティーカップをソーサーに置いて、
「何かあったの?」
「別の事件性が出た」
ロイの穏やかな声に、しかし僅かな緊張が含まれていた。リドリーの瞳にも伝わった。
昨日の昼ごろ、富裕層が比較的多い高台の邸宅街で、一邸の屋敷がほぼ全焼する火災があった。
屋敷の中で、一人の女性の遺体が発見されており、物盗りによる放火も視野に入れて警察が捜査をしている。
そこで鑑察課では、放火や家宅侵入に関連する情動結晶が出ないかを検分する予定になっていた。
だが、警察が新しい情報を慎重に出してきたのだという。
ロイは、視線でエリスも話に巻き込むように、
「女性の遺体に、かすかな扼殺痕が見つかったらしいんだ」
――扼殺痕!
リドリーの表情が固くなった。火災現場で、手で首を絞められた遺体……
「発見当時、その倒れていた女性のすぐそばで、救護隊員が一人、放心状態で座りんでいるのが発見されていた、というんだ」
一緒に救助に入ったもう一人の救護隊員が、二階を捜索した後に、一旦屋敷を出た。しかし、一階を捜索しているはずの相棒がなかなか帰ってこないという。やむなく再度救助に向かい、一階の奥の部屋で放心した相棒を見つけた。
すぐに相棒の正気を起こし、倒れている女性を燃える屋敷から担ぎ出したが、その後、女性の死亡が確認されたという。
そして、遺体を解剖局に回したところ、扼殺痕が見つかった。
「救護隊員が、事件に関わっていたということ?」
救護隊員とは、軍隊で特別な救護技術の訓練を受けている者たちのことで、消防を管轄する夜警団などにも派遣されていた。
「放心状態で発見された救護隊員は、今は保安局の医術棟に収容されているよ。事情聴取は始めているようだけれどね。火災現場では、殺人事件も視野に入れて追加調査をしているんだ。もう終わる頃だけれど、少し時間を空けてから、僕たちが入る」
「被害者の身元は、分かったの?」
「オリナ・グラファド、二十六歳、女性。その屋敷の住人で、一人暮らし。身体を悪くしていたらしくて、周囲の屋敷の住人たちによると、普段からあまり外出している様子はなかったようだね」
通いと住み込みの使用人もいたらしいが、火災時は留守だったようだ。うちの一人は夕方に屋敷に戻ってきたところで、警察が職務質問をかけたという。
不意に、ロイがクスッと笑った。リドリーは、その視線に気づいて思わず苦笑した。
リドリーは、軽く握った左手をそっと口元に添えていた。考え事をする時の癖なのだが、エリスも同じ格好で考え込んでいたのである。最初はリドリーを真似ていただけだったが、最近はすっかり仕草が板についた。
「姉妹みたいだね」
「かわいい妹でしょう?」
と、リドリーは自慢げに聞こえるように小声で返し、エリスに指示を出した。
「エリスは、現場検証の内容を課題整理して、明日の朝に院へ報告しに行くようにね」
すると、エリスは姿勢を正して、はぁい、と一応の返事をした。
「もう実講を抜け出さないように」
エリスはニッと笑って、
「まぁ、そう言わずにィ」
とかく、エリスは現場好きだ。新しい見聞の匂いを嗅ぎつけて、いつの間にか隣にいることがある。リドリーは諦め半分でつい笑みが漏れた。
ロイが、たしなめるような口調になって、
「実務講習の欠席が多いと、研修後の配属希望に影を落とすこともあるからね」
それは、リドリーも昔サリアスから聞いたことがあった。リドリーを現場に連れて行けない、と渋い顔で話していた。
エリスは、今度はきちんとした返事をした。
「発見された遺体だけど」
リドリーは慎重な口調で、「扼殺痕って、確かなのかな?」
侵入者なら、ナイフなど凶器を持っているのが普通である。素手で犯行に及ぶのは、リスクが高い。
ロイも思案顔になった。
「ジルさんの見立てらしいから、間違いではない、と思うけれどね」
法王庁でも屈指のベテラン解剖術師の名を出されたら、リドリーは納得するしかない。
「警察は、その救護隊員に容疑を絞っているんだ」
まさか、とリドリーは思った。救護隊といえば、過酷な訓練を受けた人命救助の精鋭部隊だ。敵が間近にいる戦場の最前線に果敢に突入し、大勢の負傷兵を運搬し応急治療にあたる。全員が志願者である。身分や階級、出自の区別なく重傷者を優先して、多くの命を救ってきた。その実績は、皇帝から直々に賛辞を賜ったほどである。救助対象の住人を殺害するとは、想像がつかなかった。
「解剖結果は、もう出るの?」
「警察がかなり催促したらしくて、それでも、今日の夜遅くまでかかるみたいだよ」
ジルさんは、さぞかし機嫌が悪かろう、とリドリーは解剖術師の頑固な顔を思い浮かべた。少し気が引けたが、
「じゃあ、解剖局には、さっそく明日の朝に結果を聞きに行こうかな。現場の検証結果とも照合したいし――」
ふと、視線を感じた。
あ、しまった。と、リドリーは思った。
エリスが、小さく口を尖らせて、もの惜しそうな視線でリドリーを見ていた。
エリスは、院の実講に予定を取られ、解剖の話を聞き逃すのが惜しいのだ。いい意味で、エリスはこういう好奇心がとても強い。修法院の導士課程を首席で終えたのも、専門性への興味の強さゆえなのだろう。
リドリーは、つい笑顔になった。
「今日の現場検証が終わったら、私と一緒にラボで課題整理しよう。明日は、エリスが院から戻ったら、解剖結果を聞かせてあげる」
エリスはこくりと頷いて、はぁい、と言った。




