第四章 願いの天秤 03
「てっきり、待ちぼうけを喰らったんだと思ったよ」
大通りに面した広場のベンチで、ロイは手にしていた小冊子を閉じ、ようやく姿を見せたクレイに声をかけた。
クレイは歩いて近づいていたが、ずいぶん息が上がっている様子だった。途中、走っていたのだろう。
側まで来ると、クレイは立ったまま両膝に手をついて、前屈みになって大きく呼吸をした。
広場は、法王庁や保安局のある行政区から少し離れた、繁華街に隣接する区域にあった。噴水を中央に、紅いレンガ畳が同心円に広がり、闘技場くらいの面積がある。
周囲の樹木は黄色やオレンジに染まり始めていた。柔らかな陽射しの中、人々が散歩をしたりベンチで語らったり、思い思いに過ごしていた。
街には、平和な時間が流れていた。
「大変だったんだから……」
クレイから上級室長の話を聞いたロイは、
「――急ごう」
と、ベンチを立つなり、「まずはハリの居所に頼むよ」
「……そこそこあるぞ」
「車を雇うよ。場所は?」
行き先を聞くが早いか、ロイは、足早に広場の端にある停留所に向かった。待機中の辻馬車に声をかけて、行き先を告げる。クレイが追いついた時には、もう価格交渉を終えていた。
辻馬車は、クレイが「いくら払ったんだ」と呟いたくらい、あっという間に目的地に着いた。その分、舌を噛みそうになるほど、揺れはひどかった。
着いたのは、旧市街の外縁部にある住宅の密集地だった。古い建物を細かく区切った賃貸物件が多く、市場や工場で働く労働者が住む場所である。
古い石畳があちこち浮き上がっているのが目立つ。ここからは徒歩である。
ロイは、曲がりくねって奥が見通せない路地を眺めた。古来の要塞都市の特徴だ。この迷路は丘の上まで続いている。人通りは多く、昼を過ぎて買い出しに出かけるのだろう、カゴを抱えた人々が往来していた。
「行こう」
二人が路地に入って間もなくすると、井戸のある石畳の中庭のような場所が、道の先に開けていた。道にせり出した二階を支える柱の陰に、そっと身を隠す。
「奥の大屋根の下にいる、亜麻色の髪の、薄い茶色の服を着ている子だ」
と、クレイは視線を前に向けたまま言った。見ると、井戸近くの調理台のような大きなテーブルに、十人近くの子どもが集まっている。椅子に座ったり走り回ったりと、テーブルを囲んでいた。歳はまちまちのようだが、うちの三人が、はしばみ色の服を着ていた。うち、ハリの髪色である亜麻色は二人いた。
「背の低いやつだ」
ロイは目を見張った。ハリの歳は既に十六を数えるはずだが、クレイが人定したのは、どう見ても初等教育を終えたくらいの子どもだったのだ。
ハリは椅子に座り、テーブルの上で、開いた本のようなものの一点を指差しながら、周りの子どもたちに何やら話している。大勢の中でも小柄な部類だ。十六歳という少年に見るような、幼さが消されていく肩幅の成長や、遠く先を見通そうとするかのような背の高さなど、年相応に宿る風格をまったく感じさせない。
だがよく見ると、比較的大人びた子どもたちも、互いに肩を寄せてハリの話に耳を傾けているように見える。周りで走り回る小さな子どもは、ハリのすぐ隣でぴたり立ち止まってテーブルを覗き込み、また駆け回るを繰り返している。
どうやら、ハリを中心に話が進んでいるようだった。子どもたちの中に、まるでハリに対する見えない称号があるかのように、ロイには感じられた。
「初めて見た時は、さすがに疑ったよ。ナッカに何度も聞き返して怒られた」
人探しに長けたクレイの同僚だ。笑顔の絶えない温厚な男である。
ロイは、しばらく様子を眺めて、
「クレイは、顔が知られているの?」
「いいや、こうやって目視しただけだから、面は割れてない。マクダリオの案件じゃスダリに容疑を絞ってて、まだ捜査室でも尋問をしてないんだ」
縁が切れると法的な関係が消滅するため、血のつながった姉が死亡しても連絡する公的手続はない。ハリが、スダリやオリナと帝都で会っているのか、あるいは二人のことをどこまで知っているのか、予想ができなかった。
「じゃ、声かけるぞ」
「まだ名乗らなくてもいいよ」
ロイは、行きかけのクレイを止めた。
「声をかけないのか?」
ロイは、テーブルの会話がゆっくりほどけていく様子を見ると、スタスタと奥に進んでいった。慌てたようにクレイも続く。
井戸を過ぎてテーブルに近づくと、ハリが気づいたように、こちらを穏やかな顔で見上げた。
艶のある美しい亜麻色の髪が、可愛らしい少年の顔を丸く包んでいる。大きな目は吸い込まれそうなほど青く透き通り、だが眼差しにはものの分別を感じさせるような光を宿していた。よく見ると着古した服のほころびがあちこちにあるが、不思議とその凜とした佇まいで目立たない。
ロイは胸に手を当てて、にこやかに挨拶した。
「人を探しているのですが、この辺りに、クレイという人が住んでいると聞きました。ご存知ですか?」
横にいたクレイが、丸い目をロイに向けた。
ハリが周りの子どもたちを見渡して、今日はここまでにしようと言うと、みな二人を値踏みするようにしながら解散していった。
一人残ったハリが、ロイに向き直って椅子を勧めた。二人は腰をかけた。
「クレイさん、ですか? どのような方でしょう?」
子どもらしい高い声だが、角のない落ち着いた響きだった。さらに実年齢以上の心得を感じて、その落差にロイは不思議な気持ちになった。
ロイは、簡単にクレイの特徴を話した。すると、ハリは思慮深そうに宙を眺め、視線を戻してかすかに首を傾げた。
「そちらにいらっしゃる方に、似ておられますか?」
ロイは、クレイと目を合わせた。クレイの目が、助けて、と言っているように感じた。
なかなかの洞察力を持った少年だ。ロイは頷いて、
「ええ、そういえば雰囲気は似ていますね。もう少し背が高くて、目鼻立ちをはっきりさせたような」
うるせえよ、とクレイの目が言ったように見えた。後で奢るから、とロイは目で言った。
ハリは、さらに仕事や家族のことなどを訊ねてきた。この辺りにいるという情報を誰から得たのかに至るまで、質問に含まれていた。そして、申し訳なさそうな声色になって、
「この辺りだと、聞かない方のようです。お力になれなくて申し訳ありません」
「ありがとう。この界隈のこと、お詳しいのですね。こちらに住まわれて長いのですか?」
「いえ、引っ越してきて、まだ一年くらいなんですけど」
ハリは、少し照れたように、さらに奥の建物に目をやった。ゴツゴツした石造りで二つ窓があり、中を見るとテーブルと椅子が並んでいて、食堂のようになっていた。
窓から子どもたちが顔を出した。うちの大きめの一人が笑いながら、
「もう食っちまいますよ」
と手を上げて中に消えていく。見た目は年下のハリだが、おそらく最年長ではないかと思われた。
「あの子たちが、近所のことをいろいろ教えてくれるんです。あと、街の人たちも」
ハリがテーブルで開いている本は、かなり使い込まれた数学の本だった。ページの図を見ると、ロイが修法院で学んでいた内容だ。
「みんなの先生をされているんですね」
と、話を変えた。「ひょっとして、実はもうどこかの学生さん? まだとてもお若く見えるのに」
「いえ、学生はまだこれからで……。でも僕は、身体があまり大きくならなくて……」
と恥ずかしそうに、「力仕事ができたら身入りがいいんですけど、こんなことしか。ここの食堂を手伝いながら、子どもたちを見るようになったんです」
照れたような笑みを浮かべると、頬が丸く膨らんで、さらに幼い顔になった。屈託のない可愛らしい少年になる。
「子どもたちをここに集めて? すごいな。私も、昔は教えていましたけど、一人ずつでしたよ。大変ですよね、みんな得意なものが違うから」
「そうなんです。バラバラの質問がまとめて来ちゃうから、もう騒がしくて。本に載っていないこともいっぱいですしね」
「私は、結局ひとりでは手に負えなくて、姉に助けてもらっていました。仲が良かったものだから、つい頼ってしまって。そのたびに叱られていましたけど」
二人は笑った。
「――ご兄弟は、いらっしゃるのですか?」
「いえ……僕は……、あ、そうですね、僕にも姉が……」
と言い淀んで、「……兄も、いました」
「お二人もいらっしゃるんですか。それは心強い」
「いいえ。ずっと小さい時に、僕は離れて暮らすようになったので、ずっと会ってなくて……。それに兄といっても、本当の兄弟じゃなくて。けど、よく一緒に遊んでくれたんです」
ロイは、ハリの屈託のない笑みを眺めながら、
「大切にされていたのですね」
「はい」
ハリは、はっきりと答えた。
何ひとつ棘がなく、潔さすら感じた。身の上を思うと不思議なくらいである。ロイは、パルファの我が子への養育に思いを巡らせた。胸が潰れそうになった。
すると、ハリは少し思慮深い面持ちで、遠慮ぎみな声で言った。
「ひょっとして、僕を探しているのは、あなた方ですか?」
ロイは、突然核心をつかれたような気がして、息を呑んだ。
「クレイ、のことじゃなくて?」
とロイが返すと、ハリはロイの目を見つめた後、笑って首を振った。
「ごめんなさい、変なことを聞いて」
「誰かが、君を探しているの?」
「いいえ。子どもたちの家族の方が、近所に僕の居場所を訊ねられた人がいるって教えてくれたんです。たぶん、子どもの勉強の話じゃないかとは言われたんですけど」
へえ、とロイは感心しながら、
「評判がいいんだね」
ロイは、同意を得るようにクレイを振り返ると、一瞬、細く鋭い目をした。クレイは、驚いたように固まったままの顔をかすかに小刻みに左右に振る。警察の聞き込みがハリに勘付かれていたのでは、とロイが疑いを向けたのだ。そんなヘマしないよ、とクレイの目が訴えていた。
「前にいたところでも、同じようなことがあったから」
スダリが探しにきていたのだろうか。ハリを見つけたのなら、もう会っていそうだが、とロイは思った。
もう少しスダリやオリナのことを確かめたかったし、パルファのことも聞きたかったが、あやしまれそうだ。この少年に深く観察される前に切り上げようとして、ロイはハリに礼を言った。
ハリは笑みを浮かべ、
「お気をつけて。クレイさん、見つかるといいですね」
と言い残して立ち上がり、子どもたちのいる食堂に歩いていった。ゆっくりとした動きだったが、確かな足取りだった。
二人は、道を引き返した。
「お前のほうが、よっぽど『刑事』だよ。大した作り話だ」
「ほとんどは本当の話だよ。妹に頼まれたほうだったけどね」
クレイは口を尖らせて、
「俺は、ずっと教わるほうだったよ」
「彼は、スダリに会っていたと思うかい?」
「……いや、そんな感じじゃなかったな」
「そうだね。たぶん、スダリは彼を見つけていないと思う」
あの様子だと、オリナが死んだことも知らないのではないか。
クレイが怪訝そうな顔になって、
「なんで、聴取を取らなかったんだ?」
ロイは、遠く背後にいるハリを意識した。
「まだ、事件のことを知らなくて済むのなら、その方がいいだろうから」
もちろん、いずれ知ることにはなるのだろう。
――プログノシストダイモニ
もしも、オリナの遺言書の通りにその遺産を継げば、発作の苦痛を抑えることができるだろう。ハリの様子を見た上で、本人にその話をしてもいいと思っていた。
だが、ためらわれた。
オリナの遺産が入れば、ハリは薬と療養を手にできる。しかし、そのためには事件を知らねばならない。姉の死と、兄の容疑を。
事件を知ることか、発作の恐怖と苦痛か。ハリにとっては、どちらが悪魔なのだろう。
迷っていた。歩く足が、ひとりでに止まりそうだった。




