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第四章 願いの天秤 02

「当時の記録は、それだけだねぇ」

 部屋に戻ってきた白髪の老警官は、そう言いながら、リドリーが見ている資料を指差した。


「ありがとうございます。お忙しいのに、すみません」

「なに、捜査資料の場所は、全部覚えとる。手間にゃならんよ」


 ナージと名乗った老警官は、両手で黒い制服の襟を正す素振りをして、ニッと笑った。白い口髭が跳ねた。ドレッドの管轄局で、長年勤めているのだという。


 ここは、町局と呼ばれる地方警察の支局だった。警官たちの事務室で、壁の一角には槍や棍棒などが並べて掛けられていた。


 リドリーは、傍らのテーブルに捜査書類を出してもらって、マクダリオ死亡事故の資料を確認していた。

 ほとんどが、捜査官たちが帝都に持ち帰った複写と同じものだった。当時の情動採取の記録があればと思ったが、全く調べられていなかった。


「当時は、完全に事故死扱いだったからねぇ。こんな事態になるとは、誰も思ってなかったよ」

「解剖の法具は、使われていましたね」

「ああ、便利になったもんだ。専門家がいなくても、大体のことが分かるんだからね。何も考えず、ポン、だよ」

 ジルさんが聞いたら何て言うかな、とリドリーは苦笑した。


 地方には、まだまだ鑑察官も解剖術師も足りていない。警察官だってそうだろう。


 主たる外傷は、頭蓋粉砕骨折。死因は、左後頭部脳挫傷および右前頭部対側損傷と書かれていた。後頭部から強い衝撃を受けて潰れた脳が、その反対方向の頭蓋にも激突して挫傷したのだ。


 胴体の外傷は特に書かれていない。花壇内の比較的柔らかな地面に転落したためと推定されていた。後頭部は、脳の形状を維持できないほど激しく破損しており、花壇の丸い縁石に強打したものとされている。ただ、首は頸椎脱臼のみで、転落による頭への衝撃を考えると、リドリーには軽すぎるように思えた。


 当時の情動の記録は、やはり見つからなかった。事件か事故か、それこそ情動鑑定の出番なのに――


「遺体を発見した使用人は、まだ同じ居所に住んでいますか?」

 ナージは目を閉じて首を横に振った。

「いや、あそこの使用人は、事故の後みんな町を出たんだ。不正取引の件からだいぶ経ったとはいえ、よくない噂しか立たないからね。義理堅く残っていた人たちだったけど、食べていくには、仕方ないことだ」


「あとは、オリナさんが一人で住んでいたんですね」

「ああ、そうだよ。何人か新しく家事使用人が出入りしたらしいけど、長くは続かないみたいでね。やっぱり周りは、いわくありの目で見るからね」


 オリナが帝都に来たのは、暮らしにくさがあったからかも知れない。それとも、何もかもを失った場所に居たくなかったのか――


 当日は、買い出しに出ていた家事使用人が、夕方近くに帰ってきて、マクダリオの遺体を見つけていた。急いで自室で寝ていたオリナに知らせた後、警察に駆け込んでいる。


 他の通いの使用人たちは、休みだった。出荷の前日で、マクダリオが一人で荷を改める日だったからだという。


 その日に、スダリが訪問している――


「先日の警察の捜査で、被疑者がグラファド邸に行きたがっていたという証言がありました。その証人がどこにいらっしゃるか、分かりますか?」


 その時のスダリの様子を聞けないかと、気になっていた。


「それなら、今そこにいるよ」

 と、ナージは廊下の向かいのドアを指差した。リドリーは目を丸くして、

「いらっしゃるんですか?」

「ああ、いらっしゃるとも」

 露骨に丁寧な、しかし呆れたような口ぶりで、「また、くだらない喧嘩をしてな」


 リドリーの意外な表情を楽しむように、ナージはにこりと笑った。やがて小さく手招きして、ついてくるよう促した。


「いいんですか?」

 警察に拘束されている者から供述を取るには、鑑定捜査指名書が必要なのだが、何の手続きもなく取調室に入れてくれようとする。ありがたいが、帝都では考えられないずさんさだ。

 慌てて、手持ちの指名書を出して、署名した。


「お調子者だから、まともな話が聞けるとは限らんよ」

 と、ナージは渋い顔になった。

「それじゃ、期待しないで遠慮なく尋ねますね」

 ナージは、晴れ渡るような笑い声を上げて、向かいの取調室のドアを開けた。


 机を挟んだ奥に、若い男が座っていた。手前に座る警官が立ち上がり、老警官に挨拶をして席を譲った。

 ナージは短い礼を言うと、リドリーに座るように促した。


 若い男は、ハッドと紹介された。喧嘩だと聞いていたので、体躯のいい姿を想像していたが、どちらかと言うと、痩せた身体で線の細い優男である。前髪を整えようとしているのか、やたらと指でいじっていた。


 リドリーが正面から微笑んで挨拶をすると、ハッドは時間がゆっくり滞ったように、リドリーを見つめた。

 まるで緊張感がない中で、リドリーは身分を名乗った。


「少し、話を聞かせてください。スダリという人のことで伺いたいことがあるんです」

「……きみ、いくつ?」

 まるで、うわごとのような呟きだった。リドリーは、一瞬語意を探すのに手間取った。ハッドはじっとリドリーを見つめながら、


「きみ、警察官なの? ここの? 知らなかった……。オレ、よくここ来るんだけど、こんな可愛い子、初めて見たよ。新任なの? 異動してきたの? ね、オレの担当になってよ!」


 矢継ぎ早に、徐々に声量は上がっていった。机に両手をついて、椅子から腰が浮き上がっている。それを押さえつけるように、ナージの声が降ってきた。


「公務執行妨害で、わしが逮捕してもいいんだぞ」

「い、いや、だって、いつもじいさんがオレの担当じゃ……」

「担当、など、ないわ」


 と、指を差してハッドに座るように促した。「聞かれたことに素直に、正直に、知ってることを話せ。なら、今回は多少のことなら目をつぶってやる」

 いいのかな、とリドリーは冷や汗をかいた。


 ドレッドで警察が調べたことの中に、同僚、つまりハッドが話した、スダリについての証言があった。

 スダリが、昔の働き先に出向きたいと言っていたこと。

 また、できればそこで働きたいと言っていたこと。

 そして、鳥を飼いたいと言っていたこと――


 話をすると、ハッドは「それそれ」と頷いた。

「あいつ、ずっと言ってたんだよ。なんでも、昔の働き先で、飼ってた鳥に思い入れがあったみたいでさ。だけど、組合の宿舎じゃ、飼えないんだよね」

「飼えない?」

「町で流行り病が出ると、オレたち荷運びが疑われるんだよ。病気をうつして回ってるんじゃないかって。ふざけた話だろ? だから組合が神経尖らせて、宿舎じゃ飼えないことになってんの。鳥だけじゃない、猫とか、犬とか、とにかくペットはダメなんだ。そういうのから病気がうつるって噂されちまうからな。結構厳しいんだ」


 ハッドは、感心したような素振りで、

「でも、あいつ、やるよな。隠れて鳥を飼いやがってさ。宿舎で。ちょっとの間だけだけど」


 冬以外は、月に一度だけ町で鳥市があるのだという。

「あいつその市で買って来たんだ。おとなしい小鳥だったんだけど、鳥籠に覆いを被せて隠してたってさ、鳴くときゃピーピー鳴くだろ? 見つかって、執務長から大目玉くらってた」


 ハッドは、身を乗り出して、「ね、きみも動物好きなの? あ、ちょっと待って、当ててみるよ。猫でしょ。黒い子猫なんか似合うよなぁ。鳥市ってさ、他の生き物もいるし、もうじき来るんだ。一緒に見に行かない?」


「聞かれたことにだけ答えんか。ちゃんと座れ」

 ナージに頭が上がらないのか、ハッドは子どものようにオドオドして座り直した。


「あいつ、飼ってくれる人に渡すって言ってたんだ。ちょうど、あの頃だったと思うよ」

 誰かに渡しに行ける日があるとすれば、あの休日だけだろう。マクダリオに、いや、オリナに渡すつもりだったのだろうか。


 スダリにとっては、飼い鳥は罪の象徴のようなものだ。スダリはオリナに詫びるために訪ねたのではないか――


「ありがとう。とても参考になりました」

 リドリーが席から立ち上がろうとすると、それを引き止めようとしたのか、急にハッドの手が伸びた。リドリーは驚いて、反射的に机についた腕を引っ込めた。


 ハッドは悲しそうな顔になって、

「ね、ねえ、担当のこと、考えてよ!」

 ナージは、リドリーを退がらせた。

「担当などないと言うとるだろう! そんなだからすぐにケンカになるんだ! この子に手を出すな!」

「な、なんだよ、ちょっと話するくらいで……あ、ひょ……ひょっとして、あんたの孫なのか? お……おじいさま?」


 ナージは、ハッドを睨みながら、腕全体で出口を指差した。


「釈放!」


 リドリーは、賑やかな取調室を後にした。

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