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第三章 孤独な景色 09

 一年半ほど前。


 リドリーが鑑察課の執務室で倒れてから半年ほどたった日、ロイは、鑑定部長室に呼ばれた。


 部屋に入ると、バハニアが座っている部長席の前に、既にサリアスが立っていた。

 サリアスは、よくこの部屋に立ち入っていた。捜査で連携する時は、こうして部長室に三人が集まって、打ち合わせをしたものだった。


 ロイを部長室に呼ぶのはバハニアではなく、いつもサリアスの方である。その日も、昼に部長室に来るようにサリアスから言われていた。だが、いつもと様子が違っていた。


 ロイが部屋に入るや否や、サリアスは真剣な表情で言った。


「リドリーの情動空間の法術について、知っているな?」


 質問の口調ではなかった。

 何かの事件があったのでは、と緊張した。今までサリアスは、リドリーの能力の話をこんな風に話したことがなかったからだ。


 ロイは、いつもとは空気の違う部屋の奥に進み出て、はい、と返した。


「なぜ、疑わない?」


 意図が、つかめなかった。戸惑いながら、

「そういう卓越した能力があることは――」

「能力を持っているかどうかへの疑いじゃないよ。あいつが見たと言っている内容についてのことだ」


 サリアスは、正面に向き直って、「リドリーの話に虚構がないとなぜ思う?」


 理解しかねていると、サリアスはそれを察してか、詰め寄るように続けた。


「リドリーが、見たことに枝葉をつけて話しているとは思わないのか? なぜ疑わない?」


 それを聞いて、ロイは不意に身体中の血が回り始めるのを感じた。


 ――リドリーが嘘をついていると言っているのか


 リドリーは、一つひとつの情景を、絶えず丁寧に言葉を選ぶように話をした。ロイの脳裏に浮かぶのは、見たことを証明するために苦悩し、鑑定書に嘘をつかなければならないリドリーの失意に耐える姿だった。リドリーは、いつも情動に誠実に接していた。見てきた情動に嘘をつくことに、あれほど悩み、苦しんでいるのに――


 耳鳴りが聞こえそうなほど、身体が熱くなった。


「リドリーは、嘘で救われようとする人ではありません」


 ロイは、思った以上に口調が強く出たことに、自分で驚いた。

 少しの時間が、声の余韻を部屋から消した後、ロイはハッと平静を取り戻した。


 変わらぬ様子でロイを見つめるサリアスに、

「失礼しました。ですが――」


「私は、この春に退官する」


 後ろの席で聞いていたバハニアが、不意を打たれたような目でサリアスの背を見上げた。その視線に気づいたかのように、サリアスは鑑定部長をチラリと振り返り、

「すまん」

 と呟いた。バハニアは微かに苦笑を漏らして、

「心の準備は、していたよ」


 サリアスは、ロイに向き直った。

「私は退官する。歳のせいもあるが、身体がな……。少々、無理が過ぎたようだ」


 口元で笑ったサリアスが、また真顔になった。

 直後、思いもよらないものを見た。


「リドリーを、支えてやってくれ」

 サリアスが、丁寧に頭を下げていた。


 ロイは息を飲んだ。目の前の光景が信じ難かった。こうして願いを乞うような人ではない。これまで想像したこともない姿だった。


 いや、そもそも、今サリアスは誰に話しかけているのだろうか、とすら思った。本当に僕に頭を下げたのかと訝った。


「どうして、私に……?」

 おぼろげに、そう聞き返した気がする。


 サリアスは、頭を上げた。

「人は、脆い。私もお前も、みな脆い。背負ったものの真の重さに気付いた時には、もう朽ちる時間しか残っていない。リドリーは、あの真面目さゆえに、これまで救えなかった事実を、自分の罪として、これからも背負い続ける」


 胸に深く響くアルトの声だった。「お前には、それが見えているからだ」


 深い藍色の瞳が、どこか憂いを帯びているように見えた。


「リドリーには、サリアスさんの導きが必要です」

「これからは、そうではない」

 サリアスは、口元に笑みを浮かべた。まるで憂いの濁りを(そそ)ごうとしているようだった。


「もう、一人でも修行はできるようになった。どんな魔物を相手にしても怯まないし、引き際の心得も身についた。無理をすることもないだろう。ただ後は、実直が過ぎて一人にならないことだ。私のようにな」


 その声色には、弟子への慈しみが感じられた。

 そして、嬉しそうに付け加えた。


「それに、リドリーは、どうやらお前をすっかり信頼し切っているようだからな」


 頭の中に、サリアスの声が沁み渡った。

 以来、この言葉がロイの耳から離れた日はなかった。

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