第三章 孤独な景色 07
いつのまにか、捜査資料を広げたまま、机に伏して眠ってしまっていた。
リドリーは、両腕から顔を上げた。
時計を見ると、夜の九時を回ったところだった。二時間近く眠っていた。
光球で薄明るい執務室を見回した。すると、少し離れた自席で、ロイの眠る姿があった。やはり両腕を枕にして机に伏せている。丸まった背中が、呼吸でゆっくり上下しているのが見えた。
リドリーが椅子の背にもたれると、違和感があった。手を後ろに回すと、綿のブランケットが肩から掛けられているのに気付いた。リドリーの目が、またロイを捉えた。夜になると冷えてくる。どうやらロイが掛けてくれたのだ。
ふと、目の下が気になって、そっと指でなぞった。濡れていた。涙だった。夢を見て、泣いてしまったらしい。
直後、涙をロイに見られたかも知れないと思い、リドリーはたちまち顔が熱く火照るのがわかった。慌てて両手の甲と指で涙を拭った。
ハンカチで改めて目と頬をおさえると、今度は机に目が移った。
ティーセットが一組、書類が濡れないように離して置いてあった。紅茶が入っていた。
すっかり冷めてしまっているが、手に取ると、とてもいい香りが残っている。同時にハッとした。サリアスが好きな香りだった。いつも好んで飲んでいて、サリアスはずっとこの香りを身に纏っていた。
香りに誘われて、リドリーはカップに口をつけた。
鼻から息を吸い込み、一口飲んだ。頭の中で香りがいっぱいに広がった。サリアスに抱きしめられたような気がした。
じわりと、涙が滲んだ。
「もう……」
訳もなく文句が出た。リドリーは、苦笑しながらハンカチで目を拭った。
静かだった。耳を澄ませると、雨音はしなくなっていた。さらに耳が慣れてくると、ほんの微かにロイの寝息が聞こえてきた。机にうずくまったロイを、また目が拾っていた。
私は、誰かに助けられてばかりだ――
新しい犯行現場での最初の修行は、今でも鮮烈な記憶として残っている。手ほどきを受けながらも情動に翻弄されるリドリーを、サリアスは幾度も救い、繰り返し現実世界に引き戻した。
あの日、先生は私に覚悟を問うた。私は、自分で決めたのだ。誰かの役に立てるように、この景色を見続けると誓ったのだ。先生はずっと一人で見ていらした。それを自分が継ぐと決めた。先生の背中を追うと決めたのだ。
「――しっかりしろ」
自分に呟いた。
リドリーは、机に広げたままの捜査資料を、入手時期ごとにまとめ、順に机の端に重ねた。そして、ドレッドから第二陣が持ち帰った新しい資料に目を向けた。
運送組合の雇い簿の記録があった。マクダリオ殺害の容疑がスダリに向くきっかけとなったものだ。
スダリが休んだ日のマス目は、斜め線で記されてある。その日までの確認でき得る数ヶ月を見る限り、スダリは休みなく勤務していた。他の者のマス目には、少なくとも月に二、三日の斜め線があった。
たまに、その斜め線に重ねて、荷積役を表す丸印や、馭者を表す三角が記されているものもあった。なるほど、これは事前に仕事の役割や休みの予定を書き込み、割り振りをするための帳面で、役割を予定した日に出て来なかった時は、休みの斜め線を上から重ねて書いているのだ。
そうすると、斜め線しかないスダリのその日は、事前に休みを予定していた日だったということだ。
スダリが、事前に予定した休み――
ふと、思い当たった。
リドリーは、資料の山の中を探し始めた。ほどなく二枚の資料を引き出した。一枚は、スダリが隠していた、オリナからの手紙の写し。もう一枚は、その封筒の写しである。
リドリーは、配達料金の領収済を表す、封筒に押された日付印を見た。そして思わず「あっ」と声を上げた。
日付は、スダリが休んだ日の、つまりマクダリオが死んだ日の、二十日ほど前だった。リドリーは鳥肌がたった。
手紙には、『来月、ハリや母様が出て行ってしまった日に、父様に話をするつもりです』と書かれている。この手紙を読んだスダリは、その日を休む予定にして、グラファド邸に向かったのではないか。
もしそうなら、その日、つまりオリナがマクダリオに話をしたであろう日に、マクダリオは死んだのだ――
胸騒ぎがした。
両手で持つ大きな木槌が、凶器だという。
犯行現場は『倉庫』だとスダリは自供した。それは挑むような眼差しだった。何かを企んだような、あるいは賭けに出たような、思惑を感じた。
しかし、犯行は四年も前だ。果たして情動なんて残っているのか――
考えて、リドリーは強く首を振った。
迷ってなんていられない。自分にできることを考えるんだ。
明日、ドレッドに発とう。
私の見たものの先に、必ず事実があるはずだ。その証拠を掴むんだ。自分の目でとことん確かめるんだ。
虚ろな胸の疼きは、冷たく残ったままだった。
紅茶を、また一口飲んだ。香りがリドリーを内側から包んだ。
もう涙は出なかった。




