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第三章 孤独な景色 06

 修法院の二年生の終わりに、試験でサリアスに出会ってから、リドリーは各地の事件現場に連れて行かれて、捜査の段取りをサリアスから学んだ。


 正確にいうと、サリアスはほとんど現場の説明をしていない。リドリーが戸惑いながら、鑑察官たちの動き回る姿や話をしている内容から、少しずつ学び取っていたのだ。


 情動感知の訓練は、情動の風化が進んだ現場で行われた。多くは、事件が起きてから少なくとも半年以上は経過した現場だった。


 サリアスには、情動を見る能力のほかに、他人の情動感知と五感を共有できる特殊な力があった。

 リドリーが足元に法印を出して、情動の空間に入ると、辺りは暗くぼんやりと霞が掛かった世界だった。

 程なくすると、リドリーの前に、ふっとサリアスの姿が現れた。


 サリアスは、ぐるりと周りを見渡して、

「情動は古いが、それでもお前の見ている世界は、私のそれよりも広さを感じるな。新しい現場なら、おそらくこの霞も晴れるだろう。どんな景色か、見るのが楽しみだ」


 サリアスは、通常の情動感知も指導した。教鞭を取る院の実技講習でも、院生たち一人ひとりの情動感知に入り込み、感覚をその場で指導していた。


 院生たちには評判が良かったが、サリアスのそれは公式の法術ではない。指導中に何が起きるかわからないからと、教官たちは苦言を呈しながらハラハラして見ていたらしい。だが忠告を聞くサリアスではなかった。


 指導を一年ほど受けて四年生になる頃、リドリーはサリアスに連れられて、郊外の山林に入った。そこは、小川を越え、崩れた古い石段も抜けた、木々の実りを司るブラナ神の小さな神殿に続く道中だった。

 最近、殺人事件が発生した現場でもある。


「汚いものをたくさん見て、慣れておけ。これまでの風化し切った現場とは、まるで景色が違うはずだ」

 サリアスは、平素な口調で何の問題もないかのように言った。


 現場の情動に触れると、時として未経験の感情を誘発させ、生理的身体的に強い衝撃を受けることがある。その情動から身を守る訓練を行うのだという。


「お前は、遠く距離を置いて情動を()ることができる。その特性を活かす」

 サリアスはそう言うと、リドリーに情動の空間に入るよう指示した。


 リドリーは、足元に法印を出すと、サリアスがそこに自分の法杖の石突きを立てるのを見届けて、目を閉じた。


 目を開けると、二人は大地に立っていた。

 夜明け前の雲ひとつない薄明のような空が、果てしなく広がっているのが見えた。空は、遠く黒い地平線を鮮やかに浮かび上がらせている。もしも星が浮かんでいたならば、きっと宇宙に放り出されたような気分になっただろう。


 腕を広げれば無限の空が掴めそうだ。しかし広大な地平は、中央に立つ自分がいかに小さいかを感じさせた。リドリーは、新しい情動が見せる晴れ渡った異空間に、呆然とした。


「これが、お前の見ている世界……」

 サリアスは、目を見開いて呟いた。


 伸ばした手の先が霞にかかってしまうような狭い空間ではない。リドリーは、この何もない広い風景をサリアスと一緒に見ていることが嬉しくなった。


 地面の感触を確かめた。乾いた土のようだった。

 息を吸い込むと、頬に微かな風を感じた。子どものようにわくわくした。


 興味を惹かれたリドリーは、思わず風上に向かって駆けた。涼しい風が心地よい。少し跳ねると、身体は驚くほど高く上がり、放物線の頂点を迎え、下降した。だが落下感はなく、ふわりと地に戻れた。くるりと後ろを振り返り、


「すごいです! 先生も、新しい現場ではいつもこんな――」

「戻れ! リドリー!」


 サリアスが、大声と共に走ってくるのが見えた。


 夢中になっていて、いつの間にか遠い地平線が隠されていることに気づかなかった。緑と白のまだらにうごめくモヤのような壁が、遠くに空高くまでそびえ、リドリーたちを広く覆っているようだった。空には、黒い煙のような雲が垂れ込めていた。


 風上から、リドリーの背を一瞬の強い風圧が襲った。

 リドリーが風上に向き直ると、目の前に黒い壁があった。微かに赤や青の筋が放射線状に走っていた。


 左側から身体に強い衝撃を受けた。リドリーは地面に転がった。身体が軽いせいか、落下の痛みはなかった。ふわりと浮き上がる感覚があって、閉じた目を恐る恐る開けると、サリアスの顔を見上げた状態だった。抱きかかえられていることに気づいた。


 リドリーが黒い壁だと思ったのは、見上げるほどの巨大な生き物だった。幾本もの長く細い脚を、地面と空中を掴むように広げている。まるで、巨大な蜘蛛が腹を見せながら威嚇しているようだった。


 サリアスはリドリーを立たせると、

「情動に興味を持つな!」

 と言い放ち、蜘蛛に向きなおって、地面に法杖を突き立てた。


 サリアスは両腕を前に伸ばし、光の法印をまとう杖頭越しに、広げた両の手のひらを蜘蛛に向けながら重ねた。ギシリと木が軋むような音が、杖頭と巨大蜘蛛の腹から聞こえた。見ると、蜘蛛の胴の中央に青白い光が火花のようにほとばしり、青い炎が蜘蛛の腹を激しく燃やしていた。


 地を掴んだ三本の細い脚が、ガリガリと地を掻いた。前に進もうとしているようだったが、胴体を中心にして動かない。青白い火花に、胴が固定されているようだった。


 宙に伸びた幾本もの長い脚が、風を斬りながらサリアスを襲った。まるで巨大なハサミが勢いよく閉じるようだった。前に突き出したサリアスの両手のひらの間近で、すべての鋭い脚先が空を切った。


 ギシリ、とまた音が響いた。

 蜘蛛の胴が、青い炎で一際大きく燃え上がった。術が貫通し、背中側が燃えている。背中の炎の光で、丸い胴の輪郭がはっきり浮かび上がった。


 ふと、リドリーの視界が暗くなった。

 振り仰ぐと、黒いボロボロの大きな布の渦巻きようなものに、リドリーは包み込まれていた。


 反射的に、慌てて法杖を振り回したが、届かない。


 竜巻のような風圧で、身体が飛びそうになり、リドリーは懸命に踏ん張った。大きなボロ布は、リドリーの視界を左から右へ流れながら激しく波打った。見ているだけで平衡感覚を失う。意識が途切れそうになった。


 流れる視界に、顔のようなものが浮かんで見えた。リドリーは意識を保とうとして、その影に視線を集中させた。最初は古びた壁に浮かぶシミのような顔の影だったが、それは激しい渦の中で揺れ、波打ちながら、やがてリドリーの記憶する顔になった。


「リドリー」


 笑顔から、はっきりと声が聞こえた。その()()は、ゆっくりとリドリーに手を差し伸べた。


「お母さん!」


 思わず、リドリーは手を伸ばした。だが届かない。風に飛ばされまいと踏ん張りながら、その手を掴もうとした。


 届きそうになって、踏ん張り直した時。


「それはお前の思い出ではない!」


 サリアスの鋭い声が、嵐の渦を貫いた。「興味を持つな! 突き放せ、リドリー!」


 同時に、美しい母の笑顔は、一瞬で黒いミイラになった。リドリーの顔の前まで首を伸ばしていた。その黒い洞穴のような口の中を、リドリーは眺めていた。


 突然、視界が開けた。

 嵐はおさまり、悪夢のような光景が消えた。

 リドリーは、気がつくとその場に四肢をついていた。


 黒いボロ布の渦巻きは、離れたところで低い風音を鳴らしていた。上下に切り裂かれた形で、それぞれ渦を巻き続けている。


 サリアスが、銀色に光る剣を片手で一振りすると、元の法杖に戻った。


 二つの渦は、ふわっと開いて、暗い内側を見せた。無数のミイラの顔があった。

 すると、上下の裂けた布が一枚に戻り、大きな旗のように翻って、元の大きな渦の動きに戻っていった。


 サリアスは、四肢をついたままのリドリーのそばで庇うように立ち、渦巻きに杖頭を向けた。


 直後、渦巻きから握りこぶし大の黒いつぶてが、サリアスめがけて飛んできた。サリアスが、左手を大きく回し上げたのと同時だった。つぶては瞬く間に人を飲み込むほどの大岩になった。サリアスの前に、身長大の円い盾が、紅く輝いて張り出した。


 雷が落ちたような激しい粉砕音が響いた。踏ん張っていたサリアスは、衝撃で盾ごと身体一枚分を押し返されていた。


 もう一つ、渦巻きからつぶてが飛び出した。


「脚を掴め!」


 足元に屈んでいたリドリーは、後ろからサリアスの脚に抱きついた。途端、サリアスの杖頭の法印が破裂したように輝き、光が二人を包み込んだ。


 二人は、林の中の景色に戻っていた。


 サリアスが法杖の石突きを法印から抜くと、リドリーは、その場で崩れ落ちた。

 全身が、汗だくだった。まるで何時間も全力で走り続けたかのように、呼吸が追いつかない。身体は火照り、頭がズキズキと痛い。指先は凍ったように冷たかった。明らかに法術酔いだった。


 サリアスは、静かな口調で言った。

「あの二つは、どちらも獲物を執拗に追いかけて狩る時に出る、快楽系統の情動だ。ほとんど黒く見えていたのは、お前にあの情動の色彩に関する知識がないからだ。識別をしたければ、色んな情動結晶の構造色を頭に叩き込んでおけ。ラボの隣の資料室に、いいサンプルがある」


 リドリーは、地面に両手をついて、呼吸を整えるのに精一杯だったが、辛うじて「はい」と答えた。


 サリアスは、杖頭をリドリーの背に当てて、何かの術をかけた。リドリーは急に身体が軽くなった。法術酔いが抜けたのだ。全身の血が指先まで流れるのを感じた。頭痛が嘘のように消えた。しかし息は上がったままで、脚は動かせなかった。


「真新しい情動空間では、身体が軽くなる。だが安易に跳ねるな。軌道を読まれるし、下からの攻撃にも脅かされる」


 サリアスは、リドリーに立つように促した。

「もう一度だ。犯行現場の情動は、すべて敵だと思え。まずは、中で簡単な術式を教える。ためらうな。続けるぞ」


 その日、リドリーはサリアスと共に、何度も情動の空間にもぐり込み、教わる術式を試し、情動と繰り返し戦った。


 情動は、その姿形や出てくる順番はあまり変わらないが、風向きを起点にして身構えていても、空間に入るたびに出現の仕方は異なった。視界を外して出現することが多く、何度試してもリドリーは苦戦した。頻繁にサリアスの保護を受けなければならなかった。


「相手を留めて、動きを封じたら、近づいて観察しろ。共感は駄目だ、観察だ。感じようとするな。知るだけでいい。でなければ、記憶や感情を読まれる」


 一度の休憩をはさんで、夕方近くまで指導は続いた。

 リドリーは、憎悪に満ちた情動に何度も記憶を読まれ、また、慣れない術を多く試したこともあって、強い法術酔いを繰り返した。身体そのものにもダメージが溜まっているようで、酔いを抜く術でも回復しなくなった。


 リドリーは、立っていられずに地面に両手をつき、背中で息をした。サリアスは、リドリーに法術衣を脱ぐように勧めた。その背中をさすりながら、

「少し口を開けろ」


 言うが早いか、サリアスはリドリーの喉の奥に、長い指を入れた。突然のことに、リドリーはたまらずその場で吐いた。吐瀉物は泥のようだった。


 咳き込むリドリーの背を、サリアスはさすり続け、

「これで楽になる」


 少しの休憩の後、二人は帰途に着いた。その途中で小川に寄った。


 リドリーは顔を洗い、顔の汗と火照りを洗い流した。全身が熱を帯びていたが、裸足になって、春の冷たい川の水に脚をつけると、とても気持ちよかった。しばらく澄んだ流れに晒していると、次第に火照りも落ち着いてきた。ひざ下が浸かる深さまで川の中を進んだ。脚は、まだ鉄のように重かった。


 サリアスは、リドリーを眺めながら、感心したような口調で言った。

「驚きだ。お前の情動感知は、あんなにも鮮やかなのか。空間の奥行き、色彩、輪郭、音、熱量、匂い、動きの滑らかさ。どれをとっても桁違いだ。どちらが現実なのか、分からんよ」


 そして冗談のように、「私の身の方が、持たないな」

 と笑った。


 そのサリアスの笑みの中に、リドリーは楽しそうな屈託のない表情を見た気がした。夕陽ではっきり見えなかったが、先生もそういう顔をするんだ、と嬉しくなった。近くで見たいと思って、岸に向かった。


 サリアスが静かな口調で言った。

「お前の見ている世界は、ずっと未来の法術だよ」


 その言葉の意味を、リドリーは量りかねた。


 リドリーがフラフラと岸に上がると、サリアスの表情からは笑みが消えていた。リドリーを、まっすぐに見つめていた。


「お前が、いつか鑑察官になって、そこで見ようとしている世界は、自分勝手で、暴力的で残酷で、理性のかけらもない凶悪な魔物の巣窟だ。奴らはお前を欺き、傷つけ、狂わせようとする」


 裸足のまま近づいて、リドリーはサリアスを見上げた。二人の顔が暖かい夕陽に照らされた。空ごとオレンジ色に包まれて、リドリーは時間が止まったように感じた。


「お前の世界は、他の者には見えない。お前は一人で情動に向かい合わなければならない。そして、そこで見た事実を証明する責任を、背負うことになる」


 リドリーは、覚悟を問われたのだと思った。

「先生も、これまでずっと、お一人でご覧になっていたんですよね」

「お前の世界ほどではないがな」


 リドリーは、修法院で鑑察官という職に触れた。その選択研修では、向かってくる異形の情動から身を守る術が分からず、気まぐれな反応に振り回されれて、何度も体調を崩した。相手は研修用の風化した情動で、今思えば小さく緩慢な動きだった。それでさえ、怖いと感じることがあった。


 他の院生は、同じ研修で平気な顔をしていた。その様子を見て、最初リドリーは自分には向いていないのだと思っていた。


 一方で、仲間たちの話を聞くと、

「音が聞こえてくるの。その場所を見つけなさいって、教官に言われたよ」

「オレは、服が糸で引っ張られる感じ。方向は分かるけど、距離は難しいんだよな」

 などと言って、平気な顔をしていた。リドリーが動き回る情動の話をすると、仲間からも教官からも戸惑われるだけだった。


 だが、やがて自分にしか見えていない景色なのだと気がついた。情動について学ぶにつれ、自分にはその数や順番が見えることで、多くの情報を得られる力なのだと実感した。役立てられると考えるようになった。


 サリアスに出会ってからは、情動と渡り合う術があることを知り、道が開けたように思った。ずっと一人で景色を見てきたというサリアスの存在は、リドリーにはとても心強く、尊敬できる師に巡り会えたのだと感じていた。


 そして今日、この鮮やかな景色を一緒に見られたことが、何より嬉しかった。


「一人で見るのは、怖いです」

 と、リドリーは打ち明けた。「でも、これが私の世界なら、受け入れたいと思います。それに、先生にお会いして、これまでお仕事をご一緒してきて、人のために役立てられる力だと思ったんです」


「鑑察官の使命は、事実を見つけることだ。決して、人を救うことではない」


 リドリーは、思わず微笑んでいた。

「一年以上、先生のおそばいて、そうは思いませんでした」


 リドリーは、サリアスに歩み寄った。疲れ切った脚が、まだ重かった。きっと、これからも過酷な修行なのだろう。

 長身のサリアスを、正面から見上げた。


「また、教えて下さいますか?」


 サリアスは、じっとリドリーの目を見つめ返していた。返事はなかった。

 長い沈黙に戸惑った。困らせてしまったのかと思った。改めて話しかけようと、口を開けた。


 その直後、リドリーはサリアスの胸に抱きしめられていた。サリアスの香りが、ふわりとリドリーを包んだ。


 優しく、柔らかな抱擁だったように思う。ただ疲れ切っていて、身体の感覚はおぼろげだった。しかしサリアスの香りだけは、その胸に包まれて、はっきりと感じられた。


 リドリーの頭のすぐそばで、穏やかな声がした。


「今日は、よくやった。頑張ったな」


 初めて聞く、温かな声色だと思った。


 陽が落ち、薄暗くなってきた帰り道で、林の中を先導するサリアスを、リドリーは追うように歩いた。どんな表情なのかが気になって、サリアスに駆け寄った。横顔を見上げた。


 そこには、ペンダントのカメオに刻まれた、女神の横顔があった。


 リドリーは、目を覚ました。

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