第一章 彩りを読む人 02
情動結晶の鑑定結果を提出して、所要の手続きを済ませた後、リドリーは警察本部の建物から出た。
そのまま保安局の石門を出ると、馬車が行き交う広い通りが横切っていた。その雑踏の間を小走りで渡る。レンガの路面に、馬の蹄鉄や車輪の音が響いており、まだ朝の賑やかな時間帯だった。
リドリーの手には、法杖が握られていた。法術を使う時の必需品である。背丈ほどのまっすぐに細い金属製の杖で、杖頭には円形の装飾が施されていた。
持っているだけで、法術専門の国家機関『法王庁』の職員だとわかる。
通り沿いにある法王庁の通用門に来ると、衛兵が濃緑色の革鎧に身を包み、敬礼で挨拶をくれた。リドリーは笑顔で挨拶を返し、黒い門をくぐった。
朝の空気はもう秋だ。少し足を急ぐだけで、身体の芯はすぐに火照るが、指先には風がひんやりと染み込んでくる。法王庁の広大な敷地に植えられた樹々の緑には、早くも黄色が混ざり始め、ほんのりと濡れた落ち葉の香りがした。
リドリーは、東館の正面玄関を入った。門番の詰め所を兼ねた守衛室の広い窓口から、革鎧姿の衛兵が見える。
広い吹き抜けのホールに入ると、タンポポの花のような造形の、円い巨大なステンドグラスが正面に現れ、リドリーを高みから照らした。これは八百年以上続く法王庁の紋章で、帝国中の法王庁管轄すべての棟に造られている。
ホールを右に折れて、長い廊下を足早に歩く。
――よかった、ちゃんと間に合いそうだ
と思いながらも、リドリーは歩を緩めなかった。
今朝は、警察からの急な依頼で取り調べが入り、予定の職務に遅れてしまうところだった。いつも複数の事件を抱えていて、一つずれると調整が大変だ。
幾何学模様の石畳が、リドリーの靴音を心地よく廊下に響かせる。高い天井から下がるシャンデリアは、装飾の一つ一つが光り輝いて、乳白色に廊下を照らしていた。法術で制御された照明だった。
リドリーは、鑑察課のある南側に向かった。
廊下から更衣室に入ると、暗かった部屋が乳白色の光にふわりと包まれた。天井で光球の法術が、部屋の動きを感知して作動したのだ。広い部屋には、オーク材の落ち着いた佇まいのロッカーが、高く三列に並び立っていた。
リドリーは、自分の名前が書かれた札の前に立ち、縦に細い扉を開いた。
法杖を、ロッカーの奥に丁寧に仕舞う。
膝まである薄緑色のコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。法術を使うときは、必ずこの法術衣を着用する。いたずらに力が発散してしまわないようにするためだ。
リドリーは、ロッカーの扉の内側の鏡を覗いた。私服を着た若い女性の姿が映っていた。
つややかな唇の両端はかすかに上がり、早歩きしたせいで頬にほんのりと赤みがさしていた。指の背で頬をそっとおさえると、ひんやりとした爪の感触が、火照った頬の弾力にしっとりとなじみ、心地よかった。
淡い光沢をまとう栗色の髪は、高く括ったテールヘアで、うなじを隠すくらいまで垂れ下がっている。風で乱れたその束を、長い指で包むようにそっと持ち上げると、栗色の髪束はしなやかに弾んで指をすり抜け、艶を放ちながらストンとまとまった。
耳横の長い後れ毛を、指先で撫でるように整える。
鏡のそばに、ネックレスが掛けられていた。リドリーは、ぶら下げられた小さなカメオをそっと手に取った。
仕事が一つ終わるたび、こうしてカメオを眺めるのが、いつしかリドリーの習慣になっていた。
青白い浮き彫の女性の像は、法術の力の源泉と謳われている太陽神の横顔である。数多の神々の中でも珍しく、必ず左右どちらかの横顔で描かれるのが慣わしだ。片側を隠すことで昼と夜を表すといわれる。
リドリーの透き通った茶色の大きな瞳に、女神の凛としながらも憂いを帯びた、伏し目がちの横顔が映る。リドリーのまつ毛の影も、瞳を隠すようにふわりと揺れた。
「事実だけを見ろ……」
リドリーが、口の中で呟いた。
この女神の横顔は、師であるプラム・サリアスの面影を思い出させた。カメオの女神像に似ているからでもあるが、このペンダントをリドリーに授けてくれたのが、サリアスだったからだ。
サリアスも鑑察官だった。二つ前の春に退官した。歳を理由にしていたが、激務で身体に相当の無理を蓄えているのが、リドリーにも分かった。今は遠い故郷の町で、療養しながら過ごしていると聞く。
事実だけを見ろ――
リドリーに、ふと笑みがこぼれた。カメオを見ていると、サリアスが声をかけてくるような気がしてしまう。
サリアスは、教授職だった夫を亡くしてからは、鑑察官として事件現場に出ながら、法王庁直轄の教育機関『修法院』でも教鞭を執っていた。
そして、まだ院生だったリドリーを、あろうことか事件現場に連れまわし、実地で鑑察官の仕事を教えてきた。
――退官なさってからは、先生にお会いできていない
横顔であるはずの女神が、こちらを見ている気がした。
サリアスからの戒めが、リドリーの耳に蘇った。
「お前にしか見えない事実は証拠にならない。他の奴にも見えるものを突き止めろ」
その言葉を敬い、そして畏れてきた。
お前にしか見えない事実――
――今回は、見ずに解決したようだ




