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第三章 孤独な景色 04

 リドリーが警察へ去った後、ロイは、鑑察課の執務室に戻った。


 誰もいない執務室だった。皆が多く外出していることは珍しくないが、一人で執務室に残るのは、いつ振りだろうか。


 ロイは、静かな部屋を見渡した。

 窓は、薄暗く色彩のない雲の空を切り取っていた。部屋の中は、綺麗に整った席や、隅に書類を積み上げた机が並んでいる。奥には来客用のソファ。共同厨房に続く通路口の隙間から、小さな配膳室の食器棚が見える。


 ふと、執務室の出入口に目が止まった。急にロイは胸騒ぎを感じた。今にもドアが開きそうな気がしたのだ。


 非番のはずのリドリーが、執務室に入ってくる姿が思い出された。サリアスの「修行」から戻り、床に崩れ落ちたあの日の、やはり陽が傾き始めた頃だった。


 ロイが、体力を回復させる法術をリドリーに施した時、どうしても術が及ばない疲労があった。まるで、じわじわと身体を蝕む漆黒の木タールが、術の抱擁を拒み、浸透を弾き返してくるように感じられた。


 その時リドリーは、鑑定書に嘘を記す苦悩の蓄積に苛まれていたのだ。


「このところ、見えていることが証明できていなくて……」

 言いながら、リドリーは力なく微笑んでいた。


 その瞳の翳りを、今日、廊下で見た。


 ――猶予は消えた

 あと三日ほどあるはずだったが、新たな容疑でスダリを逮捕したことは、軍からの督促を早めるだろう。手を打たなければ――


 あの日以来、ロイは、リドリーの考えていることに意識を向けてきた。リドリーは何を探しているのか? 何を見て苦しんでいるのか? 考えられる限りの仮説を立て、助言と助力を心がけた。


 やがてリドリーも、

「これは、ちょっと大人しい情動だったんだけど……」

 と、見たことを少しずつロイに話すようになっていった。


 だが今日、あの瞳を見て、ロイは術をかけられたように動けなくなった。取り調べに向かったリドリーを、追うことも呼び止めることもできなかった。


 昨日、ジルが途中で飲み込んだ言葉が蘇った。その続きを、これまでも脳裏で何度繰り返したことだろう。


 ――サリアスさんは、リドリーの情動世界を見ることができた


 自分には、それができない。


 サリアスなら、何と声をかけただろうか、とロイはリドリーの師の記憶を頼った。同時に、自然と苦笑いが浮かんだ。きっとサリアスは何も言わず見守るに違いない。弟子が答えを出すまで待つ人だったように思う。手助けをすることもなく、考える試練を与え続けた人だった。


 ――リドリーは、その師の教えを守り続けている


 突然、ドアが開いた。


 ロイと目が合って、クレイは部屋に入りながら口を尖らせた。

「人の顔を見て、そんなにがっかりした顔するなよ」


 ロイは、ふと我に返った。

 そして、自分の目がリドリーを探していることに気づいて、苦笑した。


 クレイは部屋の中央のテーブルに向かい、長いため息をついて、椅子に身を投げるように座ると、天井を仰いだ。その横顔に、疲れがのぞいていた。


「保安局の詰め所に、軍の伝令が来てたんだ」

「情報部だね。おそらく、偵察だと思うよ」

「逮捕は昼前だぞ。いつ情報が漏れたんだ?」

 ロイは少し考えて、

「逮捕令状を、昨夜のうちに請求しなかったかい? 裁判所にも軍の偵察は入っているよ」


 一夜あれば、たとえ平時でも一個大隊を展開できるのが、この帝国の軍である。

「ありがたいね、注目してくれて」

 今日は、情報部は警察の動向を調べに来たのだろう。


「抜け出してきたのかい?」

「ひと仕事、終えてきたんだよ。外から戻ってきたら軍の姿が見えたから、こっちに来た。尋問で拘束されちゃ、たまらないからな」


 人身保護法によって帝国内での不当拘束は禁じられている。軍もさすがにそこまで露骨ではない。逆に、物的証拠がまとまっていないと指摘した上で、警察によってスダリが不当拘束されていると主張してくるだろう。その解放のために部隊を動かすというほうが、いかにも軍が考えそうなシナリオだ。


「ちょうど良かった。いろいろ聞きたいことがあるんだ」

 ロイは自席の椅子に座り直し、「マクダリオ殺害の件、四年前の調べでは、スダリは捜査対象になっていたのかい?」


「いいや。当時は事故の線が優勢だったこともあるけど、マクダリオからスダリには辿り着いていなかったみたいだ。今回はスダリの足取りから辿ったから、グラファド商会に顔を出すことを仕事仲間に漏らしていた線に当たったんだよ」


「スダリが父親を解雇された恨みを持つのと同じように、支配人やパルファ、ハリにも動機があるだろう?」

 支配人は言うに及ばず、濡れ衣で絶縁されたパルファやハリには、マクダリオに恨みがあると考えるのが自然だった。


「本命は、あくまでオリナ殺害の動機をとることなんだ。だから、捜査はスダリに絞ってる。他に捜査を広げる余裕もないんだ」


「……管轄郡庁に、支援要請をしていないのかい?」

 帝国内には、大小で四十を超える行政区がある。それらは七つの郡にまとめられ、各郡が捜査管轄である。広域捜査は、通常その管轄する郡庁と連携して行われるはずだった。


「ドレッドなら管轄郡庁より直接出向くほうが近い。それに、広域捜査の手続きにも時間がかかるから、要請を出してはいても、待っていられないんだ」

 時間を使うべき捜査に時間を使えない。この事件はここでも異例だ、とロイは思った。


「ハリとパルファについて、何か分かったことはある?」

「ああ、ハリは帝都にいたよ。医術学校に試験願書が出てたんだ。今は居場所をおさえただけだけど、必要になれば尋問することになると思う」


 医術学校は、修法院直轄の教育機関である。途端に身近な話になった。


 クレイは、座ったまま一度背伸びをした後、テーブルの上に両手を組んで、渋い顔をした。

「パルファは、ニ年前に他界してた。まだ帝都に来る前のドレッドで。精神を相当にやられていたらしい。ハリと二人、住む場所を転々としてる」


 隣人だった共同住宅の住人たちの話を集めると、数ヶ月に一度、子どもが苦悶する激しい呻き声と母親のうろたえた泣き声が、壁一枚を隔てて、夜通し聞こえてきたという。


 ロイは思わず目を閉じた。


 さらに、これが近隣とのトラブルの元にもなったようだった。ロイは、苦情の度に居所を変えていった母子の後ろ姿を見たような気分になった。


「そうだ、昨日の夕方、捜査室に証書局が来たんだ」

 証書局は、契約書や商取引文書などに、固有の法印を施して公式に認証する機関である。捜査の折には、関係者の利害情報を提供してくれることになっている。


「オリナは、ハリとパルファに遺言書を残してたんだ。財産のすべてを、二人に渡すと書かれてる。局に原本があった」


「いつ書いたものか、分かるかな?」

「四年前の……えっと、マクダリオが死んでから、半年経たないくらいだな。当時ドレッドで書いたものが、管轄郡庁から本局に移送されていたらしい」

 と、クレイは手帳を見て言った。「マクダリオが死んだせいで、復縁の手続きができなくなっていたから、財産を残す方法をオリナが考えたんだと思うよ」


 グラファド商会の財産なのだから、相当なものなのだろう。

 しかしロイには、遺言を残すというのは、少しずれた方法に感じられた。


 ハリやパルファと一緒に暮らす方が、オリナの望みに沿うはずだと思ったのだ。オリナは、二人を探さなかったのだろうか? 見つからなかったのか、あるいは探せなかったのか――


「ハリが帝都に来たのは、最近なのかな? 願書のことを考えると、おそらく医術学校を目指してのことだと思うけれど」

「絶縁されてから二年後にパルファが死んで、ハリは間もなくドレッドを出ている。今の居所は一年前からだな」

 と、クレイは手帳のページをめくった。「計算上は、今のところに落ち着くまで、帝都でしばらく転々としてたのかもな。世間は冷たいよ……」


 マクダリオが死んだ時には、パルファも生きていて、ハリもドレッドにいたはずだ。


 少なくとも、マクダリオが死んで二年間は、オリナがその気になれば、ドレッドでハリとパルファを見つける機会があった。人探しなら、それを生業とする調査所がいくつもある。主に戦災などによる行方不明者を探す民間の専門家だ。戦災者や失踪者の情報を閲覧できる権利を得るため、大抵は役所に業者登録をしている。そこなら人探しの依頼もできただろう。


 そこまで考えて、ふとロイは暗い気持ちになった。調査所にも様々ある。中には探すふりをして、日当と称して長期にわたり高額の費用を請求し続けるような悪徳業者もいる。


 かつての大商人が凋落し、そして世を去り、残された富豪の娘が、生き別れた家族を探す。決して世慣れしているとは言えないであろうオリナの病を抱えたままの姿が、彼らにはどう映ったのか――


 一方で、クレイが取った調書によると、スダリはハリを探していたという。ならば、オリナの行方も探していたはずだ。この二人を引き合わせなければ、一緒に暮らしたいと手紙に書かれていたオリナの希望が叶わないのだから。


 警察は、スダリが殺害目的でオリナの居所を知っていたと見ている。スダリも、火災現場で初めてオリナだと知ったという供述を翻した。しかし、リドリーの検分では、火災現場で救助活動をするまで、スダリはオリナを見つけられていなかったはずなのだ。


 そうだとしたら――


 ロイは、机の引き出しを開け、スダリのアパートから押収した物品リストの写しに目を走らせた。

 救急医術の専門書や、その学習に使った書類、自炊に使ったと思われるメモ、さらに服、靴、衣装ケース、カバンなど、あとはベッドと食器が揃えば引っ越せそうな品数である。


 ――ない


 ロイの中で、何かがつながった。


 ――確証はないけれど、多少の時間なら、作れるかも知れない


「もう一つ、確認したいのは――」

 と言って、ロイは中央のテーブル席についた。「今回の新しい動機で、オリナ殺害容疑の裁判を維持する算段はついている?」


 扼痕を含めた解剖結果では死因の特定ができず、情動結晶の鑑定も出していない。殺害動機が入れ替わったものの、物的証拠が乏しいままなのは変わりない。自分が殺害したという供述が覆れば、状況証拠だけの苦しい戦いになる。まして、被疑者は一度、動機で嘘をついており、警察の誘導があったと言われれば、一気に状況は不利になる。


 ロイは、いつの間にか自分の口調が少し威圧気味なのを感じた。それが伝わったのか、クレイは渋い顔をして、

「ドレッドでの新しい証拠で、首の皮一枚つながってるけど、正直、落とし所に困ってる。それは、室長が一番よく分かっているんだ。スダリ自身の記憶が曖昧なままだからな。けど、この方針の勢いがなくなったら、捜査自体が続けられない。上層部の意向もあるし……俺から聞いたって言うなよ」


「それなら、少し安心だね」

 何か糸口が見つかれば、警察との捜査は足並みを揃えられるはずだ。もちろん、今の警察のシナリオに何の理由もなく乗らなければ、鑑察課の立場は悪くなるだろうが。


 あとは、軍を抑えれば――

 厳しい表情をしていたのかも知れない。クレイが、ぼそりと呟いた。

「リドリーのことになると……」

「……何か言ったかい?」

 クレイは知らぬと言った顔で横を向いた。口元に微かな笑みがあった。


 つられて、ロイも微笑んで、

「そう言えば、スダリが持っていた例の鍵、見当はついた?」

「いやなにも。鍵師にも当たってるけど、法術もかかっていないし、特徴のない、どこにでもある量産されたような物らしい」


 ロイは他人事のような口調で、

「じゃ、捜査室で帝都中の鍵穴を調べるしかないね」

 クレイは開いた両手を縦に振り、

「どれだけあると思ってんだよ」

 二人は笑った。


「僕も、スダリの部屋を確認したいんだ。それと、ハリの様子も見たい。付き合ってくれないかな?」

 穏やかな口調に戻っていた。

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