第三章 孤独な景色 03
「私は、旦那様を恨んでいました」
スダリは、いつものように俯き加減で、机に目を落としながら、静かな口調で言った。
「父が、グラファド商会を解雇されてからは、私と二人で仕事を探す毎日でした」
外は厚い雲に覆われて、どんよりと薄暗い昼下がりだった。天井には光球が灯り、取調室は乳白色に照らされている。部屋の空気には、少し湿った匂いが混じっていた。
リドリーは、鉄格子の窓ガラス越しに、灰色の風景を見た。垂れた雲が、今にも雨を落としそうだった。端に見える木々の枝葉が風にザワザワと揺れていた。自分の気持ちがさらに煽られそうな気がして、リドリーは窓から目を逸らした。
「その日その日の仕事ばかりで、何もできない日が続くことも珍しくありませんでした。何しろ、不祥事で町を騒がせた渦中の親子ですから、元のような仕事にはつけません」
長期雇いの使用人たちの名は、商人ギルドの名簿に記されるのだという。この証明が貨物取引での信用になるのだが、馭者だったスダリの父親には、不祥事を起こしたグラファド商会の雇主名が残されていた。この名簿が、皮肉にも信用どころか疑惑の元となってしまい、父親には荷も馬も預けてくれるところは見つからなかった。
スダリは名簿には載っていなかったが、正直に経歴を話すこともできず、何の経験もない少年として、肉体労働を安く買い叩かれ、日銭を稼ぐしかなかった。
「ドレッドを出ようかとも思いましたが、他の街でも商人ギルドからは逃げられません。そのうち、父は失意のまま流行り病に倒れて、間もなく亡くなりました。墓も建てられず、河原の石と木の枝で弔いました」
運送組合の仕事は、そんな時にようやく手にした仕事で、スダリは死に物狂いで働いたという。やがて、父親のために墓碑を建てられるまでになった。
「旦那様を恨んだことは何度もありました。そう思わなければ、苦しくて生きていけませんでした」
話を聞きながら、リドリーは違和感を覚えた。
先日、グラファド商会で雇われていた頃の話をしていたときには、マクダリオに対して恨みを感じさせる供述も、その気配もなかった。むしろ、その家族と過ごした時間を幸せな思い出として語っていた。
リドリーは、スダリが変わった、いや、意図して変えたのだと思った。
「なぜ、今になって、マクダリオさんの殺害を自供したのですか?」
スダリは顔を上げ、リドリーと目を合わせた。まっすぐな眼差しだった。今までなら、償いに身を落とした囚人のような静けさや、記憶を失ったことの不安が感じられたが、今のスダリには確固とした意思があるように見えた。
「過去に人を殺したことを、話したくなかったのです」
「記憶のないまま、オリナさんを殺害したと供述していたくらいなのに?」
「状況から見ても、犯人は私しか考えられません。それを否定できる記憶も証拠もありませんから」
それを否定できるものは、私の中にしかない。リドリーは、スダリからも現実を突きつけられた気がした。
スダリの返答は、きっと準備していたものだろう。ためらいも迷いも感じられない。だが、また何かを隠している、とリドリーは思った。そして、胸の奥が疼いた。追えども追えども、事実がどんどん自分から遠ざかっていく。
「現場であなたが持っていた鍵は、オリナさんから託されたものですか?」
スダリは、リドリーを見つめたまま、沈黙した。
ハーディから渡された資料の中に警察の調書があったが、そこでもスダリからの供述は得られていない。
「わかりません」
「ではなぜ、元の犯行動機を捨てたのですか?」
微かに、挑むような声になった。「『付託』の情動結晶は、寝室を廊下に出たところから書斎まで続いています。オリナさんが煙にまかれたのは、あなたに鍵を託そうとしたからだ、という追及で、あれほど固執していた以前の犯行動機を捨てた。つまりあなたは、現場の『付託』情動がオリナさんのものだと最初から気づいていたのです。そしてそれが鍵のことだということも」
スダリは、リドリーから視線を逸らし、口元に微かな笑みを浮かべて、ぼそりと呟いた。
「……情動結晶は、こうやって、それが誰のものかが分かるのですね」
「何の鍵なのですか?」
「いえ、それは分かりません。……本当に分からないのです。鍵は書斎に避難してすぐに渡されました。何の鍵かと尋ねたのは覚えていますが、そのとき天井の隅が崩れて、部屋中に火の粉が舞いました。屋根が二階に焼け落ちた衝撃ではないかと思います。私は、反射的にオリナ様を保護して床に伏せ――」
と言って、急に口をつぐんだ。リドリーは苦笑した。
おそらく、口封じのために殺害しようとしている相手を庇うという話に、自分で矛盾を感じたのだろう。ドレッドの捜査で急に舞い込んできたこの新しい動機は、まだスダリ自身の中で馴染んでいないのだ、とリドリーは直感した。この動機もまた嘘なのだ。
この嘘をかき分け、その先にある証拠を見つけなければ、責任は果たせない。リドリーは、気の遠くなるほどの道のりを思った。
「あなたがオリナさんを火の粉から庇ったとしても、不思議ではないと私は考えています。あなたは避難経路上で、オリナさんに浄息巾を使いましたね?」
スダリは、視線をちらりとリドリーに戻した。
「火災現場での所持品リストの中に、その浄息巾がありました。あなたが首に装備していたものとは別の、要救護者用のものです。夜警団の確認で使用済と記されていました」
「……はい」
「少なくともその時点では、あなたはオリナさんに危害を加える意思はなかったと考えられます。そんな中で救護隊員として反射的に要救護者を庇うのは自然のことだと、私は考えています」
警察の資料では、被害者に不信を与えないために浄息巾を使用したとの見解が記されていた。これにも反証できるものを探す必要があった。
スダリは、しばらくリドリーを見つめた後、何かを考えるように少し俯いた。やがて小さく頷いて、そのまま話を続けた。
「二人で、床に伏せました。何の鍵かは、聞けないままでした」
「その後は、どんな話をしましたか?」
スダリは、また沈黙した。
『付託』でオリナが鍵を渡した後、『失誤の隠匿』が二度発生する。
一度目の『失誤の隠匿』までは、スダリに記憶があるはずだった。
スダリは、額に汗を浮かべていた。
これまで取り調べをしてきて、リドリーには分かったことがあった。
スダリは、さらりと平気で嘘をつくように見えるが、嘘に感情を込められない。下手なのだ。その自覚も持っていて、沈黙を選ぶ。そして、その沈黙を超えて生まれた嘘は、頑固だ。
「……わかりません」
リドリーの胸が、重く疼いた。
もう時間がない。スダリを重ねて逮捕したとなれば、間違いなく軍を刺激するだろう。勝負に出た警察も、焦りをさらに募らせる。
取調室は静かになった。窓の外で、木々の枝葉がざわめいていた。リドリーの胸が騒いだ。
「記憶を、戻したいですか?」
スダリの目に、不安が浮かんだような揺らぎが見えた。昨日までに見せていた表情と同じだった。
リドリーには、オリナを殺害したことにしようとしているスダリ自身が、その殺害行為に抵抗を感じているように思えていた。扼殺を認めつつも、その行為は思い出せないと言う。他のことには嘘をついても、行為を思い出したと嘘をつけないでいる。
そのとき何があったのか、自分がどうしていたのか、誰よりもスダリ自身が知りたがっているはずだ――
「軍から、あなたの身柄引き渡し要請が出ています」
スダリは、ゆっくり頷いて、
「同僚が面会に来てくれた時に、そんな話を聞きました。すぐに出られるから、と」
面会は、警察の書記官がいる中で行われている。そのせいか露骨な話は生じていないが、身柄引渡しに関する同僚たちの期待が記録に残っていた。
「引き渡されれば、あなたは裁かれる機会を失うでしょう」
「はい。分かっています。……決して、望んではいません」
リドリーは、自分の質問で妙な気持ちになり、内心で苦笑した。リドリー自身、オリナへの過去の贖罪というスダリが望む裁きを受けさせたいとは思っていない。
だが、もしもその贖罪の謎が、マクダリオの死に隠されているのなら、それを解くことで道が開けるかも知れない。
「マクダリオさんを殺害したことは、あなたがオリナさんの幸せを奪ったことと、関係しているの?」
反応はなかった。
リドリーは、数呼吸おいて質問を変えた。
「マクダリオさんを、どこで殺害しましたか?」
今度は、スダリは変化を見せた。リドリーを見つめたかと思うと、両唇を内に噛みながら落ち着きなく目がさまよう。
殺害場所と凶器の隠し場所は、まだ警察も得られていない供述だった。
しばらく机の上を睨むようにしていたスダリは、ふと顔を上げた。リドリーは、初めてスダリの鋭い眼差しを見た。挑むような視線だった。思わず息を呑んだ。
「……倉庫です」
反して、かすれた小さな声だった。それが返答だと気づくのに、少しかかった。
「倉庫?」
「お屋敷に繋がった大きな倉庫です。卸した商品を一時保管したり、馬車を乗り入れて荷を積み下ろす作業場としても使います。倉庫中央の、屋敷に近い側の作業場が、殺害現場です」
「どのように、殺害しましたか?」
「旦那様は、荷馬車の積み荷を確認しておられました。作業に専念されて、少し屈まれた時に、低くなった頭を後ろから木槌で殴りました」
「当日は、殺害するために、屋敷に向かったのですか?」
「いえ……最初は、仕事に戻りたくてお願いをするつもりでした。ですが、話がこじれてしまって……」
「マクダリオさんは、一人だったんですね?」
「はい。……支配人の不祥事があってから、旦那様は必ずご自身だけで、すべての荷改めをされるようになりました。とても警戒しておられましたから」
やはり、こちらの犯行供述は具体的だ。
「旦那様に、どんな仕事でもいいから雇っていただけないかとお願いしましたが、断られました。それでも私には、これまで思うところもあったので、食い下がって……いつの間にか口論のようになり、最後は話もしていただけなくなって……カッとなったのだと思いますが、近くにあった木槌で……」
「その後、偽装したのですね?」
「はい。遺体を庭に担いで運び、二階のバルコニーから転落したようにしようと思いました。花壇の縁石の一つを抜き取って、傷の形が合うように、頭の傷を再度殴りました。血のついた石は元に戻しました」
「倉庫の血痕は、どうしましたか?」
「石畳の血は拭き取って洗い流しました。荷に撥ねた血は、袋を包み直して、古い袋は炉にくべました」
長年住み込んでいて、勝手を知ってのことなのだろう。リドリーは改めて、
「倉庫が、現場なのですね?」
「はい」
「凶器は、どうしましたか?」
すると、また沈黙がやってきた。
ここまで話をしておいて、隠す意図が分からない。この境界線は何だろう、とリドリーは訝しんだ。
「犯行を、オリナさんに知られたのですね?」
スダリは、動かなかった。
「いつ、どのように、知られたのですか?」
答えなどないだろう、この動機は嘘なのだから。案の定と言うべきか、スダリは黙ったままだった。
なのに、私はなぜ問いかけているのだろう――
殺害現場は、自供した。
凶器が何かも、自供した。
凶器の隠し場所は、黙秘した。
隠し場所を知らないのか。知られては困る場所なのか。
これから、何をすればいいだろうか。
凶器を探すべきなのか。
倉庫で情動を採取するべきなのか。
この尋問を続けるべきなのか。
もう時間がない――
考えているうちに、胸が強く疼いた。思わず俯いて、胸の空洞に溜まった冷気を吐き出すように、ため息が出た。
『事実だけを見ろ』
――なにを見ればいいのか、見失ってしまいました、先生……




