第三章 孤独な景色 02
「リドリー」
自席の資料を手早くまとめ、足早に執務室を出るリドリーを、ロイが追いかけてきた。
廊下で肩が並んだ。リドリーは歩を緩めることなく、
「鑑定書は、私がちゃんと書くから、大丈夫」
視線は前を向いたままだった。「ロイに、迷惑はかけないよ」
穏やかに言ったつもりだったが、ほとんど抑揚のない声になっていた。
リドリーは、自分の態度に戸惑った。いつもどんな風に話していただろう。自分の普段の声を、普段の表情を、思い出せなかった。
「焦らなくてもいい。警察も、時間を稼ぐことは考えているはずだよ。課長だって、要請を受けたとは言っているけれど、でもああ見えて――」
ロイが言い終わる前に、ふとリドリーは立ち止まった。二、三歩先で振り向いたロイを見上げて、
「……課長まで巻き込んじゃ、ダメだよ」
――お前にしか見えない事実は証拠にならない。他の奴にも見えるものを突き止めろ
証拠をつかめなければ、たとえ見えたものが事実であっても、鑑定書に嘘を書かねばならなくなるということだ。
殺害していない『失誤の隠匿』で、殺害したと記さねばならない。その罪で、被疑者は裁きにかけられる。
課長は、少なくとも職制上でその責を担う立場にあった。
見えたものは自分の責任で証明せよ、とサリアスから教えられてきた。もしも証明できなければ、それを知った者まで嘘の苦悩に巻き込むことになるからだ。
「すまない。咄嗟に、時間を作らなきゃいけないと思って、話を切り上げたくて、ああ言ったんだ」
ロイは心苦しそうに詫びて、微笑んだ。「でも大丈夫。課長には、本当に時間をもらうだけだよ。決して無理はしてもらわないから」
リドリーは苦笑した。自分で負うべき責任に、いつしか、こうしてロイまで巻き込んでしまっている。
このままでは、嘘と分かっている鑑定をロイに書かせてしまう。
胸が苦しくなった。
見えたものを、伝えてしまったばかりに――
これまでも、そう思うたびに胸の奥に冷たい穴が空いた。虚ろに疼き、息苦しくなる。この重い空洞も、久しく忘れていた気がする。
いっそのこと、自分の見たものが相手にされていなければいい。そう感じたことは、これまでに幾度もあった。何も伝えなければ、誰も嘘で苦しめずに済むのだから。
かつては、人知れず現場を周り、情動を観察して事件にあたってきた。誰も巻き込まないようにするために――
俯くリドリーに、ロイは一つ歩み寄った。
「証拠は、必ず見つかる」
心地よい声の響きだった。「だろう?」
「……ごめん。ちょっと取り乱した」
これは、私の失敗だ。
リドリーは、まっすぐロイと目を合わせて、微笑んだ。
「ありがとう。行ってくる。取り調べの時間だから」
――私は、いま笑えているだろうか
いつものやりとりが出来なくなっているように思った。自分がどこに行ってしまったのか、分からなかった。
胸の奥は、虚ろなままだった。
リドリーは、足早に廊下を歩いていった。
その後ろ姿に目を向けたまま、ロイはその場に佇んでいた。




